polyphony

〜うつぼさんに捧ぐ〜






瞬の許に『氷河』のエージェントが訪れたのは、クリスマス・コンサートのツアー最終日のことだった。

イブの夜、最終演奏会の会場は東京。
星も凍って落ちてきそうなほど寒い夜だった。

例によってチケットは即日完売。
音響効果よりも収容人員数を重視して選ばれたコンサートホールのシートを埋める7割は、クラシックになど興味のなさそうな若い女性ばかり。
ラウンジホールの展示即売コーナーでも、CDよりは写真集やポスターの方がはるかに多く売れていた。




「あなたに曲を捧げたいのだそうです」

演奏を終えて控え室に戻ってきた瞬に、『氷河』のエージェントだと自己紹介した長髪の男は、名刺ではなく、日本語で書かれた『氷河』からの委任状を携えていた。

『氷河』というのが、その作曲家の本名の一部なのか、あだ名なのか、あるいは、単に名前が必要だから選ばれた符号にすぎないのか、瞬は知らなかった。
ともかく、彼(彼女)は日本では『氷河』という名で知られていた。
欧米では、その国の言葉で『氷河』を意味する言葉――英語圏なら『Glacier』、独語圏なら『Gletscher』というように――で活動していた。

出身地も経歴も顔も年齢も性別すらも知られていない。
5年前にモスクワ音楽院長の推薦を受け、ペテルスブルク交響楽団が彼の作曲した交響詩を定期演奏会で演奏したのが『氷河』のデビューということになっている。

厳しい粛然とした曲を書く作曲家で、『氷河』という名は、そのデビュー曲である交響詩のタイトルが『氷河』だったために便宜的に使われているという説もあった。
デビュー以来、自然の戦慄するほどの冷酷と美しさをモチーフにした曲を発表し続けている。
日本ではあまり受ける曲ではないが評価は高く、欧州では交響楽団の新譜のコンサートと言えば大抵は彼の曲で、そのCD売上も評価も、クラシックの大家たちの曲に混じって毎年各国の売上ベスト5にランクインされていた。
日本国内でも、誰か現代作曲家の名を挙げろと言われたら、3人に1人はその名を口にするだろう。



「氷河……さんが、僕なんかに……」
「『なんか』というのは、謙遜ですか? 日本国内のCDの売上はクラシックジャンルは言うに及ばず、へたなポップス系アーティストなど足元にも及ばないほどで、まさに人気絶頂の――」
「演奏が――」

氷河のエージェント――紫龍と名乗った――の言葉を、瞬は遮った。
「演奏が評価されているわけじゃありません…!」 

ピアニストの命である指で小さな拳を作り、瞬は唇を噛んだ。
その手は――その指は、とても、ピアニストの指には見えない。繊細ではあったが、1オクターブを抑えるのがやっとといった長さで、指だけを見たら確かに、瞬を優れたピアニストと判断するのは誰もが躊躇するだろう。

おまけに、少女と見紛うばかりの優しい面立ち――である。
「演奏を終えた僕が体力尽き果てて疲れた様子がいいんだそうです。そんなことを、僕のファンだと名乗る人が雑誌なんかに投稿するの! それがどれほど僕を侮辱することなのか知りもしないで……!」

「…………」
そんなファンが日本国中に何万、何十万人といるのである。
瞬の憤りは、紫龍にもわからないではなかった。

『アイドル・ピアニスト』。
それが、瞬に与えられた不名誉な称号だった。

「評価は低いようですね、実力より」
「…………」
「しかし、氷河は気に入った。だから――」
「人気取りや話題作りに利用されるのはごめんです…!」

以前は望んでいたことを、今の瞬は忌避していた。
以前は、確かに望んでいたのだ。
自分の名前が売れ、顔が売れ、なるべく多くの人々に自分の存在を認知してもらうことを。

「氷河が表に顔を出さないのは、そういったうっとおしいことを避けるためです。氷河には、話題も金も余っていますよ。名誉も評価も、日本国内ではともかく世界的には――失礼だが、あなたよりははるかに」

専門家の評価――となったら、瞬は氷河の足元にも及ばない。
作曲家と演奏家。
立場は違うとは言え、その立っている位置には天と地ほどの開きがある。
瞬の不敬と言ってもいいような放言に、しかし、紫龍の対応は穏やかなものだった。
その穏やかさのおかげで、瞬は、平生の礼法をわきまえた未成年に戻ることができた。

「……すみません。僕なんかよりずっと目上の方に」

氷河の年齢や経歴は不詳だったが、デビュー当初からの完成された曲作りを見ると、どう考えても現在17歳の瞬よりは年上に違いなかった。
デビューしたモスクワ音楽院で教鞭を取っている教師の一人なのではないかというのが、専らの噂で、瞬自身は、50代くらいの精力的な、それでいて厳格な活動家をイメージしていた。

「氷河さんの曲好きです。『無言歌』なんて、とても僕の手に負える曲じゃないですけど」
「無理はなさらなくて結構。あなたが、氷河の従来の曲を好むはすがない。ですが、今回提供する曲は――」

そう言って、彼はブリーフケースから一通の封筒とCD―ROMを取り出した。

「まあ、氷河としては新境地です。楽譜はこのCD―ROMの中にPDFファイル形式で入っていますが、とりあえずアウトプットしたものも持参しました」 

手渡されたのは、『春』と題されたピアノソナタの楽譜だった。

「あなたの好きに演奏してくれていいということでした。あなたに捧げた曲ですので、印税等の権利も放棄するそうです」

それは、とても優しく暖かみのある旋律の曲だった。
大したテクニックを必要としない、だが、だからこそ演奏者の“心”が全てを決めるような。

「これを氷河が――氷河さんが……?」

それまで瞬は、目の前にいる長髪の男が氷河のエージェントだということを疑ってもいなかった。が、その譜面を見て、この男性は本当に氷河のエージェントなのかという疑念が湧いてきてしまったのである。
そう疑がわれても仕方がないほど、その曲は、瞬の知っている氷河のイメージからかけ離れた作品だった。
極光の清冽や天体の無慈悲を詩のように表現する作曲家が、これはまるで花のような曲ではないか。

瞬の疑念は、紫龍に気付かれてしまったらしい。
彼は、しかし、慌てた様子もなく、ゆっくりと瞬に頷いた。

「なにしろ、氷河はロシアの田舎町に引っ込んでいるので、私が各国で出ているCDを見繕って彼の許に送っているのですが、その中にあなたの『子供の情景』があったんです」
「ああ、それは……僕が最初に出したCDです」
「そうだったようですね。それを聴いた氷河があなたの他の演奏も聴きたいというので、出ているCDを全て届けたのです」

現代作曲家の雄といわれている氷河に、自分の演奏がどう受け止められたのか、瞬は紫龍のその先の説明を聞くのが恐かった。

「最初の2、3枚はとても嬉しそうに聴いていました。が、新しいCDになると表情が険しくなってきて」
「…………」

やはり――と、瞬は顔を伏せたのである。
その訳は、言われなくても瞬にはわかった。
あまりに評価されないことに苛立って――評価されたい部分で評価されず、CDの売上だけが伸びていくことに苛立って、瞬は技巧に走り出した――のだ。
シューマンの優しい感触の曲から、リャプノフやリストの難曲といわれる曲を選び、一応弾きこなしてはいるものの、自分の解釈も感性も不在の演奏。

それでCDの売上が落ちていてくれたら、瞬はどれほど救われていただろう。
だが、CDは、その内容の空疎さにも関わらず売れ続け、それに反して、しかし当然のことながら、瞬の評価は低下していった。

「事情を説明したのです。あなたがその……アイドル・ピアニストと呼ばれ、クラシック音楽界では全くと言っていいほど評価されておらず、だから焦っているのではないかと」
「…………」

その通りだった。
デビューした時に望んでいたものは全て手に入れたというのに、それがかえって今の瞬を苦しめていた。

「このままでは、あなたは潰れてしまうと言って、氷河はその曲を書き始めました。それは、氷河があなたに捧げる花束です。暖かい……曲でしょう?」

「……はい」

それは、喜ぶべきことなのだろう。
氷河は正当に――当の演奏者である瞬が思っていた通りに――瞬の演奏を評価してくれたのだから。瞬が心を込めて弾いた演奏を氷河は耳にとめ、心が不在の曲に懸念を抱いてくれたのだから。

「あなたの事情を説明した時は、少々、残念がっていましたよ。てっきり繊細な女性だとばかり思っていたようで、最初のCDを聴いた時には、本当にあなたがその場にいたらプロポーズでもしかねないような入れ込みようでした」

「え、でも、CDジャケットの写真を見たら……。僕はCDより、ポスターや写真集の方が売れるようなピアニストです」

いくら『女のようだ』と言われていても瞬は女性ではないし、そう評されていることを知っているから尚更、瞬はCDジャケットの写真を撮影する時には必ず、スーツか礼服を着用していたのだ。

悔しそうにそう告げた瞬に、紫龍は、少しばかり悲しげな微笑を返してよこした。

「……氷河は目が不自由なのです」
「…………」


氷河が表立った場所に姿を現さない訳を、瞬は初めて知った。





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