「氷河…さんは、僕のこと、図々しいと思ってらっしゃるんでしょうか?」

これまで『春』のCD化や演奏会の件で幾度か会っていた時には、大抵穏やかで温和な表情を浮かべているのが常だった紫龍が、ロシアに向かう機内では口数も少なく、どこかぴりぴりした空気で全身を包んでいる。
瞬は、そんな紫龍の様子に、自分の願いは、氷河にも紫龍にもあまり歓迎されていないのではないかと、今になって不安になってきてしまった。

「そんなことはない。氷河も心待ちにしているし、俺も――私も、あなたを氷河に紹介できるのはとても嬉しい」
とってつけたような笑みを自然に浮かべるという芸当をしてのける紫龍に、瞬は小さな溜め息をついた。

「無理なさらないで、『私』をやめてください」

瞬がそう言うと、紫龍は、今度は本当に自然な苦笑を口許に刻んだ。

「すまない。俺と氷河は、日本の施設で一緒に育った仲間で……育ちはあまり良くないんだ」
「え…」

――ということは、氷河は紫龍と同年代の青年、ということになるのだろうか。
それは、瞬が想像していた氷河の、半分以下の年齢だった。

「成人後、氷河は母親の故国に戻って――だから、奴も日本語はできる」

お許しをいただけた途端にくだけた口調になった紫龍に、瞬は瞳だけで笑った。
紫龍が自分に同行してくれたのは、通訳と、礼儀をわきまえないの外国の子供が気難しい盲目の老作曲家の機嫌を損ねることのないように気を配るため――瞬は勝手にそう思い込んでいたのである。それを考えて、紫龍は気鬱になっているのだろう――と。
だが、彼が、幼馴染みの友人に会いに行くために、瞬に同行したのだとなれば、話は違ってくる。

聞けば、氷河は、母親がロシア人、父親が(おそらく)日本人のハーフだということだった。

初めて氷河と紫龍の身の上について聞かされて、瞬は――考えようによっては、失礼この上ない感覚ではあるが――少々気を安んじたのである。
瞬自身が、やはり孤児だったから。

「僕も……初めて弾いたのは、僕の育った施設を運営している教会にあったオルガンでした」

パイプオルガンなどという大仰なものではない。
それは、良く言えば年代物の、真実を言うならば骨董品屋も引きとってくれないような、ひどく古ぼけたオルガンだった。

「みんなが喜んでくれて、それが嬉しかった。そのうち、神父様が先生につけてくれて、内外のコンクールに出るようになって……」

それからは、全てが信じられないほどとんとん拍子だった。

「デビューの話がきた時は迷ったんですけど、僕には幼い頃に生き別れた兄がいて、僕が有名になったら、兄が僕に気付いてくれるんじゃないかと思って……」

本当は、デビューする時にそのことを公表して、広く一般に兄の情報を求めたかった。
だが、CD発売元である会社の瞬の担当者は、『あまりに大時代的なそんな設定は、今時、滑稽すぎて受けない』などという訳のわからない理由で、瞬にその件は伏せるようにと言ってきたのだった。

だから、瞬は、どれほどアイドル・ピアニストと業界人に蔑まれても、自分の写真が出回ることを止めようとはしなかった。
自分の写真が、なるべく多くの人の目に――そして、やがては兄の目に――留まるようにと、それだけを願ってきたのだ。

しかし、ピアニストとしての自覚と自負に目覚め始めた頃から、瞬は、自分の演奏活動に対する評価と人気の間でジレンマを感じるようになってきてしまったのである。


「兄上は見付かるさ、きっと」

紫龍の励ましに、瞬は力無く微笑した。





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