ロシアは、耳が痛くなるほどの冷たさで瞬を出迎えた。 シベリア鉄道の東、イルクーツクの町のメインストリートに面した大きな屋敷に入った時、その暖かさに、瞬はかえってロシアの厳しい寒さが身に染みたような気がしたのである。 瞬が通されたのは、氷河の仕事場だった。 日本の一般住居の5倍はあろうかという高い天井のその部屋には、コンピューターや各種音源モジュール、ハードディスクレコーディングシステムやモニタースピーカーが所狭しと並んでいた。 瞬自身、時々小品の作曲をすることはあるのだが、そんな時に瞬が用いる、ピアノと五線紙と筆記具というオーソドックスなスタイルはそこにはなかった。 自分のやり方はどうやらあまりに古典的に過ぎるらしいと思ってから、瞬はその部屋の主が視覚を持っていないことを思い出した。 いずれにしても、その古典的なスタイルでの作曲は、氷河には不可能なことなのだ。 アンガルスクに向かう飛行機の中で氷河の年齢を聞いてからこの屋敷に着くまでの間に、瞬は、自分の中の『氷河』のイメージ修正を済ませていたつもりだった。 気難しいワーグナーから、神経質なショパンへと。 しかし、その修正後のイメージと実際の氷河との間には、大きな乖離があった。 瞬が想像していた、線の細い神経質で女性的な盲目のショパン――は、そこにはいなかった。 その広い部屋にいたのは、体格の優れた――並外れて美しいということを除けば――ごく普通の、健康そうな一人の青年だった。 「おまえの憧れの人を連れてきたぞ」 「からかうな」 茶化すような挨拶をして室内に入った紫龍をたしなめる氷河の表情には、薄幸のかけらも天才の片鱗も一見しただけでは見い出せない。 神は彼の造作を入念に整えたのだろうが、それにしても、そこにいるのは健康で生き生きした歳相応の青年――だった。 ただ、その青い瞳に動きがない。 その美しい瞳に『美しい』以外の価値がないということが、瞬の胸をしめつけた。 「は…初めまして、お会いできて光栄です」 緊張しながら氷河に向かってぺこりと頭を下げ、その顔をあげてから、瞬は、彼への礼は無意味なのだということを思い出した。 見えていないのだ、この美しい青い瞳は。 氷河が、マスターキーボードの側を離れ、瞬の“声”の方に、危うさの感じられない足取りで歩いてくる。 瞬の前に立つと、氷河の“視線”が、彼を見上げている瞬の視線とは全く違う向きに向けられているのが、瞬にもわかった。 「触れてもいいかな」 「あ……はい」 日本語の自然なイントネーションと発音が不自然に思えるほどに鮮やかな金髪。 顔に触れるのだろうとばかり思っていた氷河の手は、しかし、一番最初に瞬の指を捜し、そこに辿り着いた。 『ピアニストの指ではない』 そう言われることを覚悟して表情を強張らせた瞬に、しかし、彼は何も言わなかった。 やがて彼の指先が、瞬の頬や唇に触れる。 瞬は目を閉じて、瞬自身も暗闇の中で、氷河の指の感触を感じていたのである。 暖かい指。 人に、そんなふうに触れられるのは、幼い子供の時分以来だった。 記憶に残る最後のその感触が、兄のものだったのか、瞬を育ててくれた神父のものだったのかも、瞬は憶えていなかったのだが。 「かなりの美形だな 全体的に小ぶりだが、さぞかし可愛いんだろう」 ――というのが、瞬を確かめた氷河の第一声。 「ああ。秋海堂の花のように」 「馬鹿を言え。この子は春の花だ」 『おまえの目はいったいどこを見ているんだ』という言葉が、その口をついて出てくるのではないかと思えるほど、氷河の反論は確信に満ちていた。 |