「あの、どうして……」

外国からの客の前にはロシアン・ティーがあるというのに、氷河自身はコーヒーを飲んでいる。
氷河の前で少し緊張しながら、お茶の苦味とジャムの甘味を一口だけ味わって、ずっと彼に訊きたいと思っていたことを、瞬は口にしかけた。

『あなたは、どうして、そんなにも僕の演奏を気に入ってくれたのか』と。
しかし、瞬はその質問を最後まで口にするのをためらったのである。
仮にもプロとして活動を続けている者が、自分の演奏のどこが良かったのかと人に尋ねるのは、考えてみれば、どこかおかしい行為である。
それは、『自分の演奏のどこがいいのかわからない』と告白するようなものであり、下手をすると、プロとしての自覚に欠けていると取られてしまいかねない質問だった。

が、氷河は、瞬が最後まで言わずにいた質問の内容を察し、そして屈託なく答えてくれた。

「俺が光を失ったのは、春だった。7年前……20歳になっていたのかな。日本からこの国に来てまもなく、自動車事故で突然」

そう言って、彼は手にしていたコーヒーカップを、実に危なげのない動作でソーサーに戻した。

「最後に見た陽光を憶えている。……克明に憶えている。それは、すぐに血の色に染まってしまったんだが」

春の日の穏やかで暖かい陽の光が血の色に塗り潰されていく――言葉で聞いているだけでも、瞬は自分の目に痛みを覚えた。
その心象があまりに鮮やかすぎて。

「君の演奏を聴くまでは、春の暖かい水色の空が、真っ赤に染まる夢をよく見た。せっかく“見える”世界にいるというのに、そんな悪夢はやりきれなかったな」

そんな悪夢の話を、しかし、今の彼は苦痛もなく語っている。

「初めて君の演奏を聞いた時、あの光に再会したような気持ちになった。しかも、それは、悪夢に転じることのない心地良い光だった」

そんなふうに語れるようになったのは、瞬のピアノに出会ったからなのだと、氷河は言ってくれているのだ。

瞬は、彼にどういう言葉を返せばいいのかわらなかった。
言葉を捜すことすら思いつかなかった。
自分の演奏を、自分のピアノをそんなふうに言ってくれる人に出会ったのは、瞬はこれが生まれて初めてのことだったのだ。

目の見えない氷河には、表情で自分の気持ちはわかってもらえないのだと気付いて、やっと出てきた言葉は、
「ありがとうございます」
――だった。

それだけでも、瞬の気持ちは伝わったのだろう。
彼はその言葉に縦にとも横にともなく首を振り、そして、瞬に尋ねてきた。

「手は暖まっただろうか」
「え?」

初対面の場で、彼が最初に瞬の手に触れたのは、それを確かめるためだったのだろう。
『はい』と瞬が答えると、彼は、嬉しそうに微笑して、肘掛け椅子から立ち上がった。

「では、聴かせてくれ」
彼はそう言って、瞬をピアノの前に案内するために右の手を差し出した。





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