紫龍が、イルクーツクの氷河の屋敷に姿を現したのは、瞬が、1週間の予定だったロシア滞在を更に1週間延ばしたいと氷河に申し出、彼から快諾をもらったばかりの頃だった。

勝手に滞在の予定を延ばしたことを紫龍に詫びようと思って、瞬が階下につながる階段をおりかけた時、客間に向かっているらしい氷河と紫龍の会話が聞こえてきたのである。

「そうか、では、瞬の兄は……」
「気の毒で本当のことは言えん」
「そうだ……な。言わないでおいた方がいいだろう」

(兄さん……?)

「俺たちも大概不幸な身の上だと思っていたが、あの子は俺たちの比ではないな」
紫龍の口振りから、彼等の会話の内容が楽しいものではないことは、瞬にはすぐにわかった。



「兄がどうかしたんですか」

二人の後を追うようにして飛び込んだ客間。
突然室内に飛び込んできた瞬に、氷河と紫龍は一様に苦い表情を作った。

しばらくためらった後で、これは隠し通せることではないと悟った紫龍が、重い口を開く。
「君の兄上は亡くなっていた」

「……嘘」

「君が7歳の時、君のお兄さんは急性の肺炎に罹って――君たちを世話してくれていた神父は、お兄さんを心配して泣く君に、お兄さんの死を伝えられなかったのだそうだ。それで、君のお兄さんは他の施設で療養していると嘘をつき、更にその施設から君のお兄さんはいなくなってしまったと言って、嘘を糊塗したのだそうだ」

「そんなの、嘘……じゃあ、僕はいったい何のために……」

何のために、自分の価値を下げることを承知で、出したくもない写真集を出し、雑誌やテレビに顔を出し続けてきたのだろう。
全ては、兄に、自分がここにいることを知らせたかったからではないか。
それが全く無意味なことだったとは。

しかし、紫龍の言葉が嘘や冗談ではないことは、彼の苦渋の表情からして疑いようもない。
瞬は突然も知らされたその事実に、自失した。

悪い報せをもたらしたことに罪悪感を覚えてしまった紫龍は、瞬に手を差し延べようとしたのだが、
「瞬、ここへ」
という氷河の声が、それを遮った。

掛けていたソファから立ち上がった氷河の前に、瞬が実に自然な動作で歩み寄る。
氷河は、瞬の頬に触れ、瞼に触れ、それから、悔いの苦味の混じった声で低く告げた。

「すまない。捜させたりなどしなければ良かった。おまえを喜ばせてやれると思ったんだが……」
「氷河……」

苦渋に歪んだ氷河の眉根に気付いた瞬が、慌てて左右に首を振る。

「ご……ごめんなさい。ありがとう。ほんとは……わかってたんだと思うの。神父様が僕に兄の居所を教えてくれないなんて変なんだもの。ただ、僕は認めたくなかっ……」

生気も感情も映さないはずの氷河の瞳が、ひどく気遣わしげに自分を見おろしているような気がして、瞬は涙で言葉を詰まらせた。

「認めたくなかったの、自分が一人ぽっちだなんてことを……」

それが、氷河が瞬を引き寄せたのか、あるいは、瞬の方から氷河の胸に頼りかかっていったのか、紫龍にはわからなかった。
ただ、唯一の肉親の死を知らされた瞬が、その涙を流す場所として氷河の胸を選び、氷河もまたそれを自然なこととして受け止めた。
その事実だけが、紫龍の前に存在した。

「…………」

そして、その事実は、紫龍に少なからぬ驚きを運んできたのである。

この1年間幾度も瞬に会っていた自分より、ほんの数日共にいただけの氷河の方が、ずっと瞬と親密になってしまっている。
決して他人に対して親しみやすいとは言えない氷河の性格を知っているだけに、紫龍は驚きを隠せなかった。





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