「僕を……ずっとここに置いてくれませんか」

瞬が氷河にそう切り出したのは、彼が兄の死を知ってから3日目の朝。
多忙な氷河のエージェントは、再び、今度は米国へ飛び、また二人だけの日々が戻ってきていた。

瞬は氷河の側を離れたくなかったのである。
唯一瞬を故国に引き止めていたものが既に失われていたことを知ってしまった今、瞬は故国に何の未練もなかった。
そして、この北の国には、瞬を必要としてくれる人がいる。
瞬が氷河の許に留まりたいと考えるのは当然のことだったろう。

氷河はその望みをきっと叶えてくれるに違いないと、瞬は思っていた。
二人の魂はそれほど近いところにいると、瞬は信じてしまえていたのだ。

だが、氷河の返事は、瞬の望んでいたそれとはまるで違っていた。
「作曲はどこでもできるが、演奏家の仕事場はコンサート・ホールだ。そこには、おまえを待っている人がいる」

氷河の思いがけない言葉に、瞬は自分の耳を疑ったのである。

「そ…そんな人……僕を待ってくれてる人なんかいない…! 僕なんか、ここで写真を撮って送ってやれば、それで用が済むピアニストだもの…!」

彼の前でピアノを演奏している時いつも感じていた、彼と自分の心が一つに溶け合っているような感覚。
あれは、自分だけのものだったのだろうか。
自分だけが感じていた、ただの錯覚だったのだろうか――?

そんなはずはない――と、瞬は自分に言いきかせた。
そんなはずはない――と。


「あまり自分を卑下するのはよくない。俺はおまえの演奏に惹かれた。おまえのピアノは春のように暖かく、聴く人の心を豊かにする。今は俺だけでなく誰もがそれを認めているはずだ」

「…………」

確かに、日本での瞬の評価はあがっていた。
氷河の曲は今も売れ続けている。
しかし――。

「あれは氷河の曲だったから! 僕がまた『ノクターン』や『白鳥』を弾き始めたらきっと……」
「そんなことはない」

「………」

離れたくない。
瞬は離れたくなかった。
自分の演奏を認め、理解し、必要としてくれていると信じられるただ一人の人から。

「周の伯芽は、自分の演奏する琴の最も良き理解者だった親友の鐘子期が死んだ時、自分の琴を斧で叩き割り、琴を奏でるのをやめてしまったんだって」

『鐘子期を失ったら、自分はピアノを弾き続けることはできない』
暗にそう告げた瞬の言葉に、氷河がぴくりと眉を動かす。

「おまえには、俺以外にもおまえの演奏を理解してくれる人がいくらでもいる」

「氷河ほどわかってくれる人はいない! 氷河ほど、僕のピアノを望んでくれる人もいない…!」

そう思ってしまうことは間違いなのかと、間違いではないと言ってくれと、瞬は必死になって、氷河に訴えた。





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