会場も、プログラムも、観客すら氷河が選んだコンサート。

モスクワの、音響設備は最上のものだったが、500人ほどの観客しか収容できない小さなコンサートホール。

プログラムは瞬のデビューCDと同じ、シューマンの『子供の情景』。

それは、子供のためのコンサートといってよかった。
実際、客席には、かなりの割合で子供の姿があった。

だが、その子供たちを連れてきた大人たちは、その半数以上が瞬も顔を知っているロシア・クラシック界の大立者ばかりだった。
国立交響楽団の常任指揮者、現代音楽の高名な作曲家、モスクワ音楽院の学長、ピアニスト、バイオリニスト、オペラ歌手やバレリーナまでいる。

これだけの観客を、あの突然の提案から10日のうちに一同に集めることができる氷河のこの国での影響力に、瞬は、今更ながらに驚嘆したのである。



ステージには薄いカーテンが下りていた。
照明が当たればステージに演奏者がいることはわかるが、客席から演奏者の姿をはっきり見ることはできない。

それが、氷河が瞬のために用意したステージだった。



「俺とおまえ自身のために、最高の演奏をしてくれ」


このコンサートに失敗すれば、氷河は自分の演奏家としての力を見限り、自分を彼専属のピアニストにしてくれるのかもしれない――という瞬の推察は、どうやら大きな間違いだったらしかった。
これほど耳の肥えた大勢の観客の前で、もし瞬が失敗したら、氷河は彼等にどう思われるだろう。
貴重な時間を割いてやって来たのに、出来の悪い音楽を聞かせられてしまったと、非難されることは目に見えている。


そして、その高名な音楽家たちよりも何よりも。



『トロイメライを弾ける?』
『きらきら星の方がいいよぉ』
『私、野ばらが聞きたいなー』


瞬の初めての演奏会場だった古い小さな教会で、瞬の初めての聴衆だった養護施設の子供たち。

客席には、あの子たちと同じように瞳を輝かせた大勢の子供がいた。



氷河の側にいるためにわざと下手な演奏をすることは、瞬にはできなかった。





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