紫龍が再び、瞬の前に姿を見せたのは、瞬が氷河の許を去って1年後の冬のことだった。 2年前、彼に初めて会った時と同じ、クリスマス・コンサートの最終日。 雪の聖夜、だった。 「氷河から、君に」 開演を30分後に控えた瞬に、紫龍が差し出したものも2年前と同じものだった。 量は、2年前とのそれとは桁違いだったが。 「こんなにたくさんの曲、いったい……」 ぶ厚い封筒と幾枚ものCD―ROMに、瞬は瞳を見開いた。 最近の氷河はほとんど新曲を発表しておらず、大掛かりな交響曲の作曲に取り掛かっているのだろうというのが、業界での専らの噂だったのだ。 「君が帰国してからずっと、氷河は君のための曲だけを書き続けていた。命を削っているような――いや、奴は、君のための曲を書くために生きていたのだったかもしれない」 「生きて……いた?」 なぜ過去形なのかと怪訝に思い、思うと同時に1つしかない答えに辿り着いた瞬に、紫龍が、瞬の不安通りの答えを告げる。 「氷河は昨日亡くなった」 「…………」 そんなことが、にわかに信じられるものだろうか。 「それまで誰にも会おうとしなかった氷河が、君に会ったのは、後天性再生不良性貧血の宣告を受けて、自分の余命がわかったからだった」 瞬の知っている氷河は、その青い瞳に動きがないことを除けば、健康な――むしろ、頑健な――肉体の持ち主だった。 「失明した時に投与された薬剤が原因だったらしい。氷河は、病み衰えていく自分を君に見せたくなかったんだろう。しかし、事実を君に告げたら、君は自分の演奏家としての道を捨て、氷河の側を離れようとしなかったかもしれない。だから――」 そんなことで――そんな、瞬にとっては何の意味もないことで、氷河は自分を突き放したと言うのだろうか。 人が人を拒む時、そこに『必要としていないから』以外の理由があっていいものだろうか。 「そんな……だって、僕は、氷河が……氷河は僕を……演奏家としてしか見ていないのだと思って……自分に春の光を見せてくれる演奏家としてしか見ていないのだと思って、だから……!」 「それはない。君のように可愛らしい人に対して、そんな失礼な」 「だって、だって、氷河は…!」 反駁の言葉に詰まって、瞬は眉根を寄せて紫龍を見あげた。 紫龍の穏やかな眼差しの中に、嘘の色は見いだせない。 では、氷河の死も、氷河の思いも、本当のことだというのだろうか。 氷河の命が、この世から失われてしまった――? 氷河との初めての、そして、最後のキスを、瞬はふっと思い出した。 あの時、氷河がもし、その命の期限を知らずにいたのなら、彼はあのまま自分を抱きしめてくれていたのだろうか。 そのまま、自分をあの国に引き止め、そして、蜜のように甘い日々をくれたのだろうか――? 「本当は、結構我儘な男だったんだよ、氷河は。君を自分の手から放したのは――人は自分の命に終わりがあることを知ると、自分以外の人間のことを考えるようになるのかもしれないな。誰の命にも終わりはあるんだから、死が手の届くところになくても、誰もがそういう気持ちを持てるはずなんだが、どうも人間というものは……」 「…………」 今、自分の手の中にある全てが失われる時がくることに気付かなければ、人は自分の幸福だけを追い求めてしまうようにできているようにできているのかもしれない。 だが、それらのものが――今、自分のものである全てが――失われると知った時、人が考えるのは残される者たちのことしかないのだろう。 「氷河は、僕が氷河の死に巻き込まれて壊れてしまうことを怖れたんですね。だから、僕をわざと突き放したんですね」 「……突き放したんじゃない。奴の心はもう君のものだったから」 紫龍のその言葉に触れた途端に、瞬の瞳には涙が溢れてきた。 突き放したのではない。 拒絶したのではない。 その言葉は、この1年、瞬がどんなに振り払おうとしてもがいても振り払ってしまえなかった孤独感を、嘘のようにあっさりと氷解させてくれたのだ。 「君の気持ちを乱したくはないので、氷河のことを伝えるのは、コンサートの後にしようかとも思ったんだが……」 少し顔を伏せて、瞬は、紫龍の言葉に左右に首を振った。 涙が、聖夜の星のようにきらめいて、宙に散る。 「悲しいけど、嬉しい。僕は氷河の許を去ってからずっと……ずっと、自分は一人ぽっちなのだと思っていたから……。氷河が――氷河の心が、僕の側にいてくれることに気付いていなかったから……」 彼は自分と自分の演奏を必要としていてくれる――そう思えるただ一人の人から拒絶された痛みに耐えながら、瞬はこの1年を過ごしてきたのだ。 その痛みが、自分を思う氷河の心だったのなら、瞬は氷河と別れてからもずっと幸福の中に住んでいたことになる。 「……では、氷河のためにも今夜のコンサートを素晴らしいものにしてくれ」 紫龍の言葉に小さく頷いてから、瞬はくぐもった声で、幸せな訃報を運んできてくれた懐かしい友人に告げた。 「でも、もう少しだけ泣かせて。ごめんなさい、一人にして」 「…………」 それ以上瞬に“伝えるべきこと”を持っていなかった喪服のメッセンジャーは、瞬の要請に頷いて、瞬の控え室を出たのである。 “伝えたいこと”は――あったのだが。 自らの命の終わりを知ると、人は他人を思い遣るようになる。 氷河は、瞬が自分を失っても生きていけるように、瞬に演奏家としての道を指し示した――? 果たして、本当にそうだったのだろうか。 瞬は一生氷河を忘れまい。 結果として、自分の死で、氷河は瞬を自分だけのものにしたことになる。 (そうなのか、氷河…?) 今となっては、真実はわからない。 あるいは、その両方ともが、彼の真実だったのかもしれない。 「いずれにしても……」 (自分以外の誰かの手には――) 自分だけのものにできないのなら、 全ての人のものに――。 (俺の手には渡したくはなかったんだろうな――) 死んでしまった男の心を大切に抱きしめて、これからの生を生きていくのであろう瞬の嗚咽を、閉じられたドアの前で、紫龍はいつまでも無言で聞いていた。 Fin.
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