それから、30分後。
本社内の部長クラス以上の管理職が、新任常務からの挨拶を受けるために常務室に招集された。

「今月から、本社内に常勤する役員は僕だけになると思いますので、何かありましたら細大洩らさず報告してください。社員の皆さんがより良い環境で実力を発揮できるようなオフィスを作ることが僕の仕事だと思っていますので……」

初心表明の挨拶も、まるでクラス委員に選ばれた小学生のそれである。
実に全く見掛け通りの挨拶に、各部長たちは憤るというよりも情けなさそうな顔で常務室を後にすることになったのである。


「残ってくださいますか。霧谷さん」

しかし、常務室を退室しようとしていた各部長たちの気の抜けた表情は、瞬が氷河を呼び止めた途端に緊張感に覆われた。
財務部長の昇進を妨げるための今回の役員人事――というのが、社内での専らの噂だったのである。
その財務部長を新任常務が引き止めた、のだ。
彼等が一波乱起こるのを予期するのは当然のことである。
これからここで財務部長と新任常務の間でどんな会話が為されるのか、部長連は興味津々だったことだろう。

実際に二人の間で取り交わされた会話は、彼等の想像を大きく裏切るものだったのだが。


「ご…ごめんなさい。まさか、氷河の勤めているのが兄の会社だったなんて、僕、知らなくて……。ほんとにごめんなさい…!」
自分と氷河だけを残して常務室のドアが閉じられると、瞬はすぐに氷河の側に駆け寄ってきて、そして、氷河に深々と頭を下げた。

「……何を謝ってるんだ」
瞬は謝らなければならないようなことはしていない。
今回の役員人事の内容についてはともかく、氷河は瞬個人には何のわだかまりもなかった。

「だって……」
瞬が、心許なげに睫毛を伏せる。

「おまえのせいじゃない」
「でも……」
進退に迷っていた自分を慰め励ましてくれた人に、これはまるで恩を仇で返すような行為だと、瞬は思っているようだった。
こんなことで瞳を潤ませている瞬が、これから企業という組織の中でやっていけるのかどうか、氷河は真剣に心配になってきてしまったのである。

背広よりはブレザーの方が似合いそうな、肩幅のない華奢な身体。
少女めいた面立ちは、大企業の役員でいるよりは、はるかにケーキ屋か花屋にいる方がふさわしいと思える。
その外見には、瞬の兄である社長に似たところは全く無く、だから氷河は昨夜、瞬の話を聞いても、自分と瞬を結びつけて考えることもできなかったのだ。

「立場上、俺がおまえの――常務の補佐をすることになると思うから、何かわからないことがあったら遠慮せずに聞いてくれ」
「はい、あの……」

早速質問かと氷河は思ったのだが、それは大いなる期待はずれだった。

「なんだ」
「瞬って呼んでくださいませんか。常務なんて呼ばれても、ピンとこないんです」
「…………」

期待はずれではあったのだが。
自分が瞬に業務や経営内容についての質問を期待していたのかというと、それも何か違っているような気がする。

「そういう訳にはいくまい。俺たちにはそれぞれの立場ってものがある」
「ふ…二人きりの時だけでも…!」

瞬はおそらく心細いのだろう――と、氷河は思った。
兄の意向に従って常務の地位に就き、しかも社内では四面楚歌。
人はそういう時、たとえ相手が敵だったとしても、孤独からの解放を望むものである。

「お願いです……」
「……二人きりの時だけだぞ」
「はい…!」

氷河の許諾の返事を受けとって、嬉しそうに瞳を輝かせ微笑む瞬に、氷河は色々な意味で激しい目眩いを覚えた。





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