その日は、瞬が、グループ本部の役員会出席のために会社を留守にしていた。 瞬が来てから、直接業務に関わらない訪問客の相手は新任常務がしてくれていたので、氷河が外来者と面談するのは久し振りのことだった。 訪問客は財務本部内で使用しているシステム機器の保全契約の更新のためにやってきた某コンピュータ関連会社の、気難しいので有名な50絡みの次長である。 応接室に氷河が入っていくと、その次長がやたらと楽しそうな顔で、氷河に話しかけてきた。 「何か?」 「いや、イメージが変わりましたな、こちらは。以前はもっと硬いイメージが強くて、こちらにお邪魔するたび緊張したものだが」 「何のことです」 「財務本部の受付電話のところに花が飾られていたじゃないですか」 「花?」 「そこに手書きのプレートがありまして……。うちの孫が似たようなカードをつけて、敬老の日に花を贈ってくれましたよ。昔は、花なんて何の役にも立たない無用の長物だと思っていたものですが、これが違うんですなぁ」 次長は笑いながらそう言うと、自分の方から一ヶ月分の保守料の免除を申し出て、ひどく機嫌よさそうに帰っていった。 全く訳がわからないまま、氷河は次長の言っていた財務本部の受付にまで行ってみたのである。 受付嬢などという無駄なものを置かないそこには、以前は受付用の電話しかなかったはずだった。 が、今は純白のフリージアが飾られていて、その花と花と間に、『ようこそ いらっしゃいませ』と書かれた手書きのプレートがちょこんとはさまっている。 「なんだ、これは」 ちょうど受付を通りかかった女子社員に氷河が尋ねると、やり手で有名な彼女はおもむろに眉を歪めて、投げ出すように答えた。 「ああ、常務が置いたんです。恥ずかしいから、やめて欲しいんですけどね。幼稚園の送迎バスじゃあるまいし」 「…………」 彼女の言うことに、氷河は賛同することができなかった。 氷河の感じ方自体は彼女のセンスに近かったのだが、この花のおかげで、氷河はたった今一ヶ月分のシステム機器保守料50万を浮かせることができたばかりだったのだ。 まして、彼女が立ち去った受付に、グループ本部ビルから戻ってきたばかりらしい瞬の泣きそうな顔を発見してしまっては――。 「瞬……」 「そ…その花、恥ずかしいですか……」 唇を噛みしめて涙をこらえているような瞬に、氷河は眉根を寄せた。 見ている方の胸が痛んでくるのだ、瞬のそんな表情は。 「そんなことはない」 「僕、お客様の気持ちをほぐしてあげようと思って……。ここを訪問してくる人たち、このフロアに入ると緊張して、話すべきことも話せないでいるみたいなところがあるみたいだったから」 「そうだったらしいな。客は皆喜んでいる。気難しいので有名だったHSシステムの次長が、実にスムーズに契約更新していった。助かった」 「ほんと?」 事実は事実である。 瞬のしていることは実際に、全て会社と社員に利益をもたらしていた。 「ああ」 「よかった。僕、氷河の役に立てたんですね」 氷河が頷くのを見て、瞬が安心したように表情を和らげる。 それを見せられた氷河の方が、今度は逆に、表情を強張らせることになった。 「氷河? どうかしたの?」 「あ、いや……」 相手は仮にも自分の上司である。 ふいに抱きしめたくなった――とは、場所がオフィスでなくても言えるものではない。 氷河は、話を逸らすことで、自分自身を落ち着けようとした。 「おまえのしてることが間違っているわけじゃないんだ、瞬。ここの部の部員はな、以前の部長にひどい目に合っていて――。仕事で忙しい時に、仕事を妨げる無駄な会議や意味のない就業後の懇親会に強制的に参加させられて、おまけに封建的で差別的な評価――だ。意欲と才能のある者たちだけに、自分の実力を発揮できない環境と公正でない評価に苛立っていたんだ」 「前の財務部長……」 それは、瞬の伯父に当たる人物だった。 両親亡き後、実質的に瞬たち兄弟の養育をしてくれた伯父で、実力主義を標榜している瞬の兄にも、どうしても切り捨てることができなかった唯一の人間だった。 年齢や立場を考えたなら、城戸グループの中核で取締役をしていていいような人物なのだが、いかんせん、経営センス・管理能力に欠け、なにより考え方が古すぎた。 「聞いています。兄も苦慮してました。好人物ではあるんだが……って」 身内の不始末を詫びるように、瞬は僅かばかり俯いた。 「あの伯父の唯一の趣味が薔薇の世話だったんです。だから、僕、会社とは関係なく、兄個人で薔薇園を作って、そこの管理を伯父に任せることを、兄に勧めたんです。ちょうど伯母もその時期少し体調を崩していたので、伯母の転地療養を兼ねて……」 「おまえがあの部長を?」 それは、氷河も初めて知る事実だった。 「だって、本当に悪い人ではないんです。それなのに、部下には煙たがられて、実際会社には不利益をもたらしていて……。伯父にも社員にも、それ以上伯父が企業内に籍を置くのは良い結果をもたらさなかったでしょうから……。今は奥さんと南伊豆で薔薇の世話をしていますよ。青い薔薇を作るんだって張り切ってるみたい」 「同じ種類の花に3原色の花は咲かないんじゃないのか」 何を言っているのかと、氷河は自分で自分を訝っていた。 そんなことではなく、別に言うべきことがあるのではないか――と。 「それが定説ですけど、今は遺伝子の操作もできる時代ですから。伯父は、60の手習いで勉強を始めたみたい。意欲的に頑張っているみたいです。人にはそれぞれ個性と向き不向きがあるんですから、仕事は適材適所が基本ですよね」 「…………」 そう言えば、前部長は退職する時、妙に嬉しそうだった。 自分より30以上も歳下の若造が後任に就いたというのに、屈託の感じられない笑顔で氷河を激励してくれた。 できない男・使えない人物ではあったが、視点を変えれば、確かに彼は好人物ではあったのだ。 「おまえが、辞めさせてくれ――取り図らってくれたのか」 「進言はしましたが、決めたのは兄です」 そんな暖かみにあふれた解決策が、無骨で実力主義一辺倒なあの社長に思いつくはずがない。 それは、瞬の功績なのだ。 氷河は、瞬の真の姿を見失ってしまったような気分を味わっていた。 自分たちがイメージする“才能”や“有能”とは別の次元で、瞬は実は非常に卓越した才能の持ち主なのではないのかと、氷河は思い始めていた。 「ん……まあ、そのあたりの事情を知らないから、部員たちは、社長の親族が来ると、また社内が滅茶苦茶にされると思っているんだ。特に財務のプロジェクト推進室のメンバーは、大型プロジェクト推進のために特別に選抜された者ばかりで、能力と実力はもちろんだが、自信とプライドが並以上の奴等だから、自分の仕事の効率を下げられるのを極端に嫌う」 「はい、下手に采配を振るいたがる管理職は無用の部署だと聞いてきました。氷河に任せておけば安心だって」 「なのに何故社長は――あ、いや……」 そうなのである。 最初から、氷河が引っかかっていたのはその点だった。 自分以外の誰も牛耳れないだろうエリート集団の上に、なぜ、瞬のような未経験な人間を据えることを、社長は思いついたのか。 氷河には、それは、ひどく無益なことに思われたのだ。 が、瞬の返事は至極あっさりしたものだった。 そして、簡潔明瞭だった。 「兄は、氷河を役員なんかにして、外部との交渉や人事の管理なんて雑事に時間を費やさせたくなかったんじゃないでしょうか」 「…………」 「と、僕は思っているんですが」 瞬はそう言って、微かに首をかしげて微笑した。 |