それ以降、氷河は努めて社員の前で瞬に声をかけるようにしたのである。
瞬がその立場を利用して、社内を思いのままにしようとしているのではないのだということを、対外的に明示するために。


「常務」
「はい?」
「いや、用はないんだが。俺とおまえが対立してないところを示してやろうと思って、な」
「だ……駄目です、そんなこと。へたをすると、氷河が裏切り者扱いされます」
「そんなことはないさ」

氷河は気楽に笑ってそう言い、自席に戻った。
人間の心の中にできあがってしまった構えや先入観というものを、氷河は甘く見過ぎていたのだ。
席に戻った氷河を出迎えたのは、誤った先入観に支配された財務部員の心配そうな顔だった。

「部長、何か言われたんですか」
「何故そうなるんだ。話しかけたのは俺の方だぞ」
「そうするように仕向けられたんじゃないんですか? 社員の前で、自分の方が上司だってことをひけらかしたいとか企んで」

「…………」

氷河は、ある意味、社員たちのその考え方に驚嘆してさえいた。
瞬は、先入観無しに見たら、素直で大人しそうな、綺麗な子供である。
それが、ほんの些細な認識の違いで、こうなってしまうのだ。

そして、それは、氷河自身も陥っていた罠だったのかもしれない。紫龍の店でしょんぼりと肩を落している瞬を見ていなかったなら。

人の誤解や思い込みや先入観――。
それらが人の判断をどれほど狂わせるものなのか。

これまで考えたことがないわけではなかったのだが、実際に目の当たりにすると、その事実は氷河の心胆を寒からしめた。

「そんなことはない。あの子は素直で優し――」
――と言いかけて、言葉を途切らせる。

素直で優しい――それは、人間への最上の褒め言葉ではあったが、企業の上層部にいる者に対して使った場合には、侮りとも解釈されかねない言葉である。


人の美点と言われているものの、あまりの頼りなさに、氷河は長嘆した。





【next】