深夜のオフィスは、しんと静まり返っていた。 30階建てのビルのほとんどの照明は消えていて、常務室だけに灯りが煌々と灯っていた。 が、不思議に室内に人の気配が感じられない。 氷河が訝りつつ常務室のドアを開けると、突然、書類のファイルが氷河の肩に叩きつけられてきた。 「どろぼーっっ !!!! 」 「うわ!」 瞬は、深夜の侵入者に恐怖して目を閉じたまま、必死でファイルでの攻撃を仕掛けているようだった。 力任せに繰り返し振り下ろされるファイルをなんとか右手で受けとめて、氷河は瞬を落ち着かせようとしたのである。 「瞬! 瞬、俺だ!」 「え?」 聞き慣れた、だが、1週間振りに耳にする氷河の声に、瞬がやっと我に返る。 「ひ…氷河……!」 「さっき、話を聞いて……手伝いに来た」 そう言って、受け止めたブ厚いファイルを、瞬の手に戻す。 瞬は、顔を真っ赤にして、ぺこぺこと米搗きバッタのように幾度も氷河に頭を下げてきた。 「ご…ごめんなさい。僕、こんな夜遅くオフィスに入ってくるなんて、泥棒かと……」 このセキュリテイシステム完備のインテリジェンスビルに、IDカードもなしに侵入できるのは、ルパン三世くらいのものである。 そう言いかけて、氷河は、だが、言うのをやめた。 今は、そんな軽口を叩いている場合ではないのだ。 「どこまで処理できたんだ」 「データを過去に遡って、修正するプログラムを4,5本作って……。処理のたびに決済許可のパスワード入力と、決済書類作成、後からの修正の痕跡が残らないように更新記録データの削除をして――」 氷河が来てくれたことに安心したように、だが、やはり疲労は隠せない表情で、瞬は氷河に現状報告をしてきた。 「今、更新記録のクリアをしています。多分、明日にはなんとか間に合うと思うんですけど」 「……!」 もとより、1億以上の決済権を与えられていない氷河にはできないことではあるが、それにしても、この短時間でシステム部門担当者の力も借りずに、これは、鮮やかとしか言いようのない手際の良さである。 「これまで、気にしたことがなかったが……」 「はい?」 氷河は感嘆の面持ちで、瞬に尋ねた。 「おまえ、経営か経済実務を経験したことがあるのか」 「あ、はい……」 瞬は、凶器のファイルを両手で抱きしめて、小さく頷いた。 「理論と簡単なシステムについては少しかじっています。ケーススタディもそれなりには学校で研究してましたし」 「学校――というのは、どこだ?」 「ハーバード・ビジネス・スクールです。僕、ハーバード大の経営学の博士号を取って、2ヶ月前に帰国したばかりなんです」 「……!」 氷河は瞬の経歴に目を剥いた。 それは、日本国内では数えるほどしかいないだろうというレベルのエリートの経歴だった。 氷河は、これまで、22歳というその年齢から、瞬は普通に国内の大学を卒業したのだとばかり思っていたのである。 (ハーバードの博士号だと !? いったい、何年分スキップしたんだ) 歳の割りにスレてないとは思っていたが、それはつまり瞬はこれまで研究室で勉強ばかりしていたせいなのだろう。 「そ…そんなエリートがケーキ屋になりたがっていたのか?」 「だ…だって、ハーバードを出る人は大企業での出世なんか考えないんです。自分で起業して、自分がトップに立つのが普通なんです」 「なるほど……」 聞いてみれば、実弟でなくても、社長が有効利用したがって当然の人材である。 エリート意識に凝り固まったプロジェクトチームの構成員たちが、瞬の経歴を知ったらどういう反応を示すのか、氷河は少しばかり意地の悪い気分で考え、その考えを楽しんだのである。 それはともかく。 コンピュータの処理は順調だったが、アナログの書類の処理はまだ手付かずだった。 それを二人で協力し合って、なんとか体裁を整えたのが、午前4時。 最後の1枚に社印を押して、氷河と瞬は顔を見合わせ、それから二人は、自然に浮かんでくる笑みを交わし合ったのである。 「ありがとうございます」 「いや、俺が悪かったんだ。おまえを補佐するのが俺の仕事なのに、何も知らずにいた」 「海外に行ってらしたんですから当然です」 「ずっと心配だった、おまえのことが」 「氷河……」 氷河の青い瞳に見詰められ、瞬は目許をほのかに染めて、幼い子供のようにふわりと微笑した。 そして、氷河のキスに、驚くより先に陶然となった。 徹夜で緊張を要する作業を続けていたのに、その緊張感が途絶えないのか眠気は一向に訪れない。 氷河と瞬は、綱渡りをしているような今夜の作業を、実は心のどこかで楽しんでいた。 二人きりで、閉じられた空間で、協力し合い、一つのことをする――という状況が、二人は心地良かったのだ。 「……1週間も離れていてわかった」 「?」 氷河は、そう囁いて、再び瞬に口付けた。 その唇を、そのまま首筋におろしていく。 「あ……!」 小さな悲鳴をあげて椅子から腰を浮かしかける瞬を抑えつけ、氷河は片手で器用に瞬のYシャツのボタンを外して、その間から左の手の平を忍び込ませていった。 「氷河…!」 ゆっくりと、まるで瞬の肌を指先で味わうように下におろしていった手がミラ・ショーンのベルトに妨げられると、氷河はキスで瞬を椅子に抑えつけたまま、それを外した。 「氷河、そんな……」 瞬は、しかし、それ以上は、やめてくれとも、やめないでくれとも言えないでいるようだった。 頬を上気させ、瞬は切なげに眉を寄せている。 「とんでもない部下で済まん」 氷河のその囁きも、瞬にはもう聞こえていないらしかった。 瞬が固く目を閉じてしまうと、氷河は瞬を抱き上げて椅子からデスクの上へとその身体を移動させ、そこで瞬に身体を開かせた。 仕事が済んで用無しのノートパソコンが音を立てて床に落ち、資料の書類が床に散らばる。 だが、そんなことは、瞬の意識にも氷河の視界にも入っていなかった。 「あああ…っ!」 そこだけ灯りのついた常務室から、闇に沈んでいるオフィスに、瞬の声と氷河の息使いだけが細く低く洩れていく。 氷河にとって、それから夜が明けるまでの数時間は、瞬と離れていた1週間分の不安と欲望と熱情を全て瞬の中に注ぎ込むには、あまりにも短すぎる時間だった。 |