朝の光の中で、瞬はぽかんとしていた。
自分の身に何が起こったのか、あるいは何も起こらなかったのかすらわからずに。

気がつくと、床に散らばっていたはずの書類は綺麗に片付けられ、着衣にも乱れはない。 
ノートパソコンも瞬のデスクの定位置に、いつもと同じ様子で置かれている。

だが、目覚めたら最初に会えるはずの人が、室内にはいなかったのだ。
長椅子に身体を起こし、瞬はこしこしと目をこすった。
あれは夢だったのかと――自分は疲れて眠り込み、とんでもない夢を見てしまっていたのかと、少し落胆して肩を落とす。
 
しかし、瞬の肩を覆っている背広は瞬のものではなかった。
それが氷河以外の誰かのものであるはずがないと瞬が思いかけた時、ふいに常務室のドアが開き、瞬にとんでもない夢を見せた当の本人が姿を現した。

「瞬」
「氷河……」

途端に、瞬の頬にぱっと朱の色が散る。
しかし、彼の口からは、瞬の期待していたような言葉は出てこなかったのである。
どんな言葉を、自分が氷河に期待していたのかは、瞬自身にも、実はわかってはいなかったのだが。

「監査が入るのは午後からだ。一度家に帰って着替えてきた方がいいだろう」
「は…はい」
「車を回させるように手配しよう。俺が送っていってもいいんだが……」
「いえ、そんな、あの……」

期待していた言葉が聞けなくて、瞬は顔を伏せた。
昨日の夕方、自分の手に負えるかどうかもわからないトラブルの報告を受けた時にも、瞬はこれほど絶望的な気分にはならなかった。
ならなかったのに――。


「ゆ…夕べ――今朝……ゆ…夢を見たの」

泣きたい気持ちになり、蚊の鳴くようにか細い声で瞬は告げた。
しばしの間を置いて、氷河の声が瞬に届けられる。
「……夢にしてしまいたいのか」

瞬が伏せていた顔をあげると、そこには、少し戸惑ったような氷河の顔があって、困ったような視線が瞬に向けられていた。
では、あの夢は夢ではなかったのだ。

「い…いいえ !! 」
力いっぱい叫んでから、瞬は、慌ててもう一度顔を伏せた。
「いいえ、あの……」

自分の大声に恥じ入ってしまったらしい瞬のその様子に安堵し、氷河は瞬のいる長椅子の側に歩み寄った。
瞬の肩に手を置いて、伏せられたその顔を覗き込む。

「もう、こんなことの起こらないように、部員たちの誤解や先入観は必ず打破してやるから」
「あ……あの、が…頑張ります、僕も! 氷河に心配かけないように、きっと…!」
「そうだな。どうせなら別の心配をしたい」
「別の…?」
「これからどこで会うことにすればいいのかとか、俺たちのことを他の奴等にバレないように気をつけなければならないだろうとか、そういうことを考えていた方が楽しい」

瞬が、氷河のその言葉を聞いて、目許をほのかに染める。

「は…はい……」

そうして、グラード・ファイナンシャル・プランニング社財務本部担当常務は、同社財務部長に、小さく可愛らしく頷いた。





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