「どうしたんだ、これは」 昨日分の業績レポートを取りにプロジェクトルームにやってきた氷河は、ドアを開けた途端に視界に飛び込んできた光景に目を見開いた。 床に落とされたケーキの箱と、その箱からはみ出したクリーム。 その前でへたりこむように呆然としている瞬――財務本部担当の常務取締役。 氷河が驚くのも当然と言えば当然である。 プロジェクトチームのリーダーが氷河の側に寄ってきて、自分の上司に小声で事態の説明をした。 「あのバカ常務、クリスマスにはまだ間があるのに、自分で焼いたケーキなんか持ってきたんですよ。いい気になってるんでしょう、昨日の監査を乗り切ったっていうんで。俺たちへの嫌味でもあったのかな。で、相沢が、そのケーキをわざと床に落としたんです」 「…………」 氷河は、一瞬言葉を失ってしまったのである。 瞬の必死の努力を、そういう見方をする人間もいるのだということに、なぜ思い至らなかったのかと、氷河は臍を噛んだ。 そういう考え方・感じ方をする人間も存在するのだということを、瞬の側にいて、瞬と接していると、つい失念してしまうのだ。 あまりにも瞬が――悪意というものに縁遠い人間なので。 崩れてしまったケーキの前にへたり込んでいる前に、氷河は片膝をついた。 呆然としている瞬を痛ましげに見詰め、それから、箱からはみ出しているクリームを人差し指ですくい取り一口だけ舐めて、わざと笑って言う。 「このクリーム、しょっぱいぞ」 「え…そんなはず……僕、ちゃんとお砂糖を……」 これは、氷河のために、氷河と自分の部下のために、無益な対立を取り除こうとして作った大切なケーキなのである。瞬は念入りに味見を済ませてきたのだ。 「泣きながら作ったんじゃないのか」 「氷河……」 頬に、氷河の暖かい手を添えられた途端に、瞬はそれ以上耐えることができなくなってしまっていた。 「氷河! 氷河ぁ〜〜っっ !! 」 辛くて仕方がない時に自分を抱きとめてくれる胸が目の前にあったなら誰もがそうするように、瞬が氷河の胸に飛び込んでいく。 そして、その場にいた社員たちは全員、部長の胸で泣きじゃくりだした常務に、あっけにとられることになってしまったのだった。 “部長”が“常務”の髪を撫で、まるで大切な宝物を壊されてしまった子供を慰める母親のように、耳元で囁く。 「おまえは有能だし、社長の実弟なんだし、もっと威張っていていいんだぞ」 「だ……だって…! 代表権のない役員っていうのは、社員のしてること良く見て、話を聞いてあげて、社員が働きやすい環境を作るのが仕事だもの! 大事なプロジェクトチームのチームワークが乱れないように気を配るのが僕の仕事だって、僕、そう思って、兄さんもそれでいいっていうから、それなら僕もできるって思って、がんば……頑張ってきたのに……っ !! 」 「そうだな。おまえはいつも一生懸命だった」 社員たちがそれを見ようとしないのなら、それを伝えて社員を鼓舞するのが、瞬と社員たちの間にいる者の務めである。 氷河は顔をあげて、この訳のわからない展開に呆けている部員たちを見やった。 「おまえらなぁ、もっと虚心になれ。こんないい上司はなかなかいないぞ。これじゃあ、ただのいじめだ」 氷河の言葉に、プロジェクトチームのメンバーたちが一様に気まずそうな顔になる。 彼等は、被害妄想に捕らわれすぎて、自分たちが加害者だという意識が全く欠けていたのだ。 「自分を貶めたくないなら、こんな低次元の嫌がらせはやめろ。俺のためを思うのなら、なおさらだ。瞬に泣かれると、俺は……やりきれん」 「…………」 そう言われても、財務部員たちには事情が今ひとつよくわかっていなかった。 部長の胸で泣きじゃくる常務の図というのが、なにしろ彼等の常識の中に存在しない構図だったし、それはまた、彼等が生まれて初めて見る光景でもあった。 「瞬は、おまえらが最高の環境で仕事をできるようにするためになら、何でもしてくれるぞ。瞬にならそれができるんだ。常務は10億までの決済権限を持っているんだから」 いっかな反応を示さない部員たちに、氷河は、『エラい人間は味方につけておいた方が得だ』という説得を余儀なくされた。 本当は、そんな事実など、氷河は口にしたくはなかったのだが。 が、彼等が氷河の言葉に無反応だったのは、瞬の誠意や才能を認めたくなかったからでもなければ、自分たちの非を認めたくないからでもなかった。 彼等はただ、自分たちの眼前に繰り広げられている光景を――不倶戴天の敵であるはずの常務をその胸に抱き、髪を撫でてやっている部長の図を――理解しきれずにいるだけだったのだ。 「部長……。あの、もしかして以前から常務とお知り合いだったんですか」 「ん?」 「いえ…その……常務を呼び捨てで……」 混乱の域からまだ完全には脱出しきれていない部員の一人が、それでも何とか気を取り直し、氷河に尋ねてくる。 その社員に、氷河はからかいをまじえた笑みを返した。 「ああ。以前からの大親友なんだ。銀座のカフェで知り合ってな。俺一人ではケーキ屋には入りにくいんだが、瞬と一緒だと入りやすい。瞬も一人で店に入るのが苦手だったから、お互いの利益が合致したというわけだ」 「…………」 超の字がつくほど切れ者の評判も高い、グラード・ファイナンシャル・プランニング社財務本部長とケーキ。 ケーキとグラード・ファイナンシャル・プランニング社財務部長。 その取り合わせは不自然極まりないものだったが、氷河の説明は部員たちを納得させるに十分な説得力を持っていた。 氷河と瞬が二人でケーキ屋に入ったら、それは、少し歳の離れた甘いもの好きの女の子に嫌々付き合わされている兄か彼氏――という自然な構図ができあがる。 「部長は甘いものはお嫌いなんだとばかり思っていました」 「そんなことはない」 『瞬を好きなんだからな』――と、さすがに氷河はそれは口にしなかった。 「最初におっしゃってくれたら、我々だって常務を敵対視したりなんかしませんでしたよ」 「俺が甘党なのがバレると困るから、瞬に口止めしたんだ」 確かに、人にはイメージというものがある。 “切れ者”のイメージをぶち壊すのに、“ケーキ”という要素ほど最適な(?)ものは、この世に存在しないだろう――と、部員たちは思い切り納得したのである。 「す…すみませんでした、常務。私……」 先程わざとケーキを落した女子社員が、部長の胸の中にちょこんと収まりきっている常務に、済まなそうに頭をさげてくる。 彼女たちの理解者であり庇護者である氷河の“大親友”は、当然彼女たちの味方であり、理解者だった。 そういう方程式が、彼女の中では成り立っていたのだ。 彼女の言葉に一瞬瞳を見開き、氷河の顔を覗き込み、それから瞬は涙を拭いて、左右に首を振った。 「ぼ…僕の方こそ、ごめんなさい。うまく膨らんだんだけど、形はいびつだったんです。箱の中で重さが片寄ってたんだと思うの」 氷河に抱きかかえられるようにして立ちあがった瞬は、彼女にそう言うと、恥ずかしそうに幾度か瞬きを繰り返した。 マイナス要因を持った先入観を捨て去ってしまえば、どこから何をどう見ても、瞬は害意のかけらも感じられない善良な人間である。 彼女は、その先入観を捨て去ったようだった。 「ま…また作ってきてください。常務の作ったケーキ、食べてみたいです」 「あ…はい。あの、でも、今度はいつ膨らむかわからないんです。僕、下手くそだから」 「いつまでも待ちますよぉ」 「あ……ありがとう…!」 花がほころぶような瞬の笑顔で、プロジェクトルーム内に明るさが満ちる。 氷河は、まるで花畑にいるような気分で、自分の花の優しい風情に目を細めた。 |