「考えようによっては名案だな。闘うしか能の無い黄金聖闘士にも、人の役に立つ仕事ができたというわけだ。ま、なんとも情けない仕事ではあるが」 
「で…でも、立派なお仕事じゃない。リリィちゃんがこの世からいなくなってくれたら、みんなが喜ぶんだし……」

アテナの権力と財力の前に屈した格好になった青銅聖闘士たちではあったが、なにしろ当の黄金聖闘士たちにアテナの命令を拒む意思がないのであるから、星矢や紫龍がどれほど異議を申し立てようと事態が変わるわけはない。

黄金聖闘士たちの処遇に不満はなくても、最愛の弟が就寝のために毛唐と同じ部屋に向かうのには不満たらたらの一輝の前を素知らぬ顔で通り過ぎてきた氷河の、一日のうちで最も大切な瞬との時間。

黄金聖闘士たちに下された沙織の命令にわだかまりを覚えつつも、無理に自分を納得させようとしているらしい瞬に、氷河はふっと微苦笑を投げかけた。
「……博愛主義のおまえでも、さすがにゴキ――リリィちゃんは嫌いか」

「え……?」

氷河にそう言われて初めて、瞬は、黄金聖闘士の仕事の内容についてはともかく、リリィちゃんを人類の敵とみなすアテナの意見にだけは同調している自分に気付いた。

リリィちゃんは、人間の生存に関わるような危害を人々に加えているわけではない。
彼等なりに必死に生きているだけなのである。

繁殖力に優れ、その数が多い。
残飯に群がる。
動きが不気味なまでにすばしこい。

嫌われる理由はともあれ、似たような姿をしたカブトムシやコオロギが人間に愛されているのに比べて、リリィちゃんに対する人間の冷遇は、考えようによっては理不尽でさえある。

「だ…だって、リリィちゃんは……リリィちゃんは……」

何故こんなに嫌いなのか。
その姿を思い浮かべただけで、嫌悪感を抱くのか。

納得できる理由を見付けられずに、瞬は思わず涙ぐんだ。

相手は必死になって生きている健気な小さな昆虫である。
日々地球環境を破壊している人間などよりずっと自然に沿って、彼等は一生懸命生きているのだ。

なのに何故愛せないのだろう?

その理屈でいったら、人間こそが、他の動物に毛嫌いされても仕方のない、自然を破壊し尽くそうとしている邪悪な生き物ではないか。
ただ、力と知恵で、地上に君臨しているだけの迷惑な存在――それが人類なのだ。


「リ…リリィちゃんは……」

無心にそこに存在するケーキは人に幸福をもたらし、必死になって生きているリリィちゃんは、人に嫌悪感をもたらす。
この矛盾をどう考えたらよいのだろう。


自分が不用意に告げた言葉が瞬を戸惑わせていることに気付いて、氷河は、俯いた瞬の肩を抱きしめ、囁いた。

「深く考えることはない。おまえに愛してもらえなくても、奴等はしぶとく生きている。案外、動物は、人に愛されない方が幸せなのかもしれないぞ。人に愛された動物は捕獲されたり、殺されて身体の一部を利用されたり、生態系を狂わされたりと、不運に見舞われてばかりいるからな。人に愛されないことで、奴等が驚異的な生命力を得たのだとしたら、人に愛されないことこそが、人間以外の動物にとっては幸福なことなのかもしれない」

「氷河……でも……」

愛されないことが幸せ。 
愛される方が不幸。
それは事実、それが現実なのかもしれない。
人に愛されて幸せになれるのは、人だけのことなのかもしれない。

ならば、人はリリィちゃんを愛せない罪悪感を感じる必要はないのだろうか。

瞬はわからなかった。

「でも、氷河……」

愛こそが――憎しみではなく、愛情こそが――人に幸せをもたらす唯一の手段と信じて、瞬はこれまで生きてきた。

“人”に――。


それは、人間同士だけにしか通じない理想なのだろうか。

瞬は、人も、人以外の生き物も、種族を超えて愛し合い、その上に幸せを築いていってほしかった。
それが瞬の理想だったのだ。


「昔は……そうだったのかもしれないな。人間も動物も皆平等な神の被造物として存在していたエデンの園のような場所では」

クリスチャンでもないくせに、突然そんなことを言い出した氷河の瞳を、瞬は切なげに見詰め返した。

人間は、しかし、禁断の果実――愛し合う快楽という果実――を知ってから、他の動物とは違った生き物になってしまったのである。

「人間も地球や他の動物を食い物にしているだけでは、自分たちの破滅を招くだけだということに気付いてはいるんだ。そのうちまた、人間も動物も愛し合って共存できる時が来るさ」
「そうだと……いいんだけど……」
「おまえは、今は、おまえの愛を必要としているものにそれを与えてくれればいい」
「氷河……」

氷河に抱きしめられ、唇に唇でそっと触れられ、やがてその口付けが深く激しくなるにつれて、瞬は少しずつ自分の意思を手離し始めた。

快楽の果実が人間に何かを与え、何かを奪ったのは事実なのかもしれない。



そうして瞬は――瞬はやがて、氷河を愛することのできる喜びと氷河に愛される歓びとに心と身体を絡め取られ、リリィちゃんを愛せない罪悪感を忘れていってしまったのだった。






Fin.






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