焦らすように、なだめるように、説き聞かせるように、氷河の指は、少しずつ少しずつ瞬の上を移動していく。
胸元に忍び込んできた氷河の指に、瞬は、それまで閉じていた瞼を更にきつく閉じようとした。

そんな瞬の耳許に、氷河の唇が囁きかける。
「小さい頃のおまえは綺麗だったな。誰かに傷付けられることはあっても、誰かを傷付けることはなかった」
「氷河……」
「人は、できることなら、いつまでも綺麗な子供のままでいたいと願うものなのかもしれん。おまえもそうか?」

瞬は肯定はしなかった。
しかし、否定もしなかった。
できなかった――のかもしれない。

「綺麗なままで、辛いことがあるたびに一輝の陰に逃げ込んで泣いてばかりいた子供の頃の自分に、おまえは戻りたいのか?」
抑揚のない穏やかな口調で、だが責めるように問われ、瞬の声が泣きそうになる。
「でも……でも、あの頃は、こんな辛さはなかったの……」

「瞬っ !! 」
氷河は、瞬のその瞬らしからぬ返答に、思わず声を荒げた。
そして、彼は、瞬が本当に弱っていることを知った。
そんな答えを返してくる瞬は、氷河の知っている瞬ではなかったのだ。

「人はな、傷付いて汚れなきゃ、本当に人に優しくはできないんだ。痛みや汚れを知らない人間は、苦しんでいる人間の痛みや汚れを察することしかできなくて、そんな自分に苦しむことしかできない。おまえは、せっかく知ることのできた痛みや汚れを忘れてしまいたいと言うのかっ !! 」

「氷河……」

それまで子供を諭すように優しかった氷河の指先から、突然流れ込んできた痛いほどの激昂に、瞬が瞳を見開く。
そこには、胸が押し潰されてしまいそうなほどに熱い氷河の視線があった。

「そんなことを、俺がおまえに許すと思うのかっ !? 」

「なぜ……なぜ、許してくれないの。僕はそれで幸せになれるのに…!」

悲痛な眼差しで訴えてくる瞬を見ても、氷河の瞳から怒りの色は消えない。

「おまえが……何で苦しもうと、どんな理由で嘆き悲しもうと、それが俺のせいでさえないのなら、俺は構わない。苦しめば苦しむほど、おまえは俺にすがりついてきてくれるだろうから。俺にすがりついてきてくれるのなら」

そして、氷河の怒りは、悲愴でできていた。

「だが、逃げるのは許さん。狂うのも死ぬのも許さん。おまえは何があっても、生きて、正気を保って、俺を見ているんだ!」
「氷河……」
「過去や現実から逃げてしまう方がどれほど楽でも、おまえは……!」

それが何を悲しんでのものなのか、瞬の瞳に涙が浮かんでくる。

いずれにしても、その場で血を流しているのは、瞬の白い手ではなく、氷河の胸だった。
瞬が弱っているのなら、氷河もまた弱くなる。
氷河は、喉の奥から絞り出すような声で、瞬に訴えた。

「おまえが……過去の罪や現実を忘れるために、俺を見てくれなくなったら、俺がどうなってしまうのかぐらい、おまえにはわかるだろう……?」

「氷河……」

そして、瞬は、そんなこともわからないほど、自分の辛さにだけ打ちのめされてはいなかったのである。
氷河が、彼自身に注がれる眼差しを失ってしまったらどうなるか――瞬時にそれを悟ることができるほどに、瞬の魂は氷河の近くにいたのだ。


もし、氷河が彼を見詰めてくれている瞬の眼差しを失ったら――。
氷河も同じことをするのである。
瞬に忘れられたことを忘れるために。
現実と過去から逃げ、正気を失う――。

「俺に、そんな不様な真似をさせないでくれ」
「でも……でも、氷河。僕の手は血で汚れているの……。僕は氷河を抱きしめてあげられないの」

氷河の手の中で、瞬の手は震えていた。
その手を、死んでも離さないと言わんばかりに強く、氷河が握りしめる。

「おまえの手は、俺が洗ってやる。地球上の全ての水を使い果たしてでも洗ってやる。水がなくなったら、俺の血を使ってでも洗ってやるから」

「氷河……」

その氷河の手も血で汚れているのだ。
それでも。

それなのに。

多分、氷河は、自分の手を更に血で汚すことになっても、瞬の手だけは守り抜こうとしてくれるに違いなかった。

「僕の手……氷河が綺麗にしてくれるの」

「そのために俺の手がある」

「…………」


氷河の手――。
瞬のそれと同じように血の色に染まった手。

だが、その手は決して汚れてなどいないのだ――。






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