「何か……心配事でもあるのか?」 「え…?」 「浮かぬ顔をしているぞ」 成人に達しているはずなのに、瞬の外見はひどく幼い。一見したところでは高校生、瞬の実年齢を知らない人間が疑ってかかったら、へたをすると中学生にも見られかねないような外貌をしている。 それは、肢体の細さのせいでもあったが、それよりも何よりも、瞬の大きな瞳が幼子のように澄んでいるからだった。 その瞬が沈んだ顔をしていたら、誰でも保護者的な気分になって声をかけずにはいられないだろう。 瞬が、成人しても天才少年と呼ばれ続けているゲノム研究界の第一人者と知っていても。 瞬が、グラード財団のゲノム・ラボラトリーの所長という社会的に認められた地位にあることを知っていても。 この少年が、自分の雇い主であっても。 場所がベッドの上で、その少年が自分の胸の下にいたとしても。 「あ……ええ、妙なことができるようになってしまって……」 「妙なこと?」 氷河は、瞬の肩に押し当てていた唇を耳許近くに移動させながら、低い声で尋ねた。 「ええ。細胞の寿命が、染色体の末端についているテロメアの残量で決定されることは、氷河も知ってますよね?」 「…………」 どうやら、瞬の心配事はあまり艶めいたことではなさそうである。 氷河は、思わず気が抜けてしまった。 が、話の端緒を開いたのは氷河自身である。今更、『こういうところで仕事の話はやめろ』とは言いにくかった。 「……細胞が分裂を繰り返すたびにテロメアが短縮されていって、それがなくなると細胞分裂が止まり、その細胞は死ぬんだろう?」 「そうです。テロメアの長さには限度があって、それが細胞の寿命です。テロメアを延ばす作用のある酵素を細胞の中に組み込んで、細胞の寿命を延ばそうとするテロメア治療法の研究が、今、遺伝子研究の世界では盛んで、僕の研究所でもご多分に漏れず、そうなんですが……」 「が?」 口で『やめろ』と言えないのなら、他の手段を使うしかない。 氷河は、言葉では瞬の言葉の相手をしてやりながら、その手には全く別の作業を課していた。 「その研究の余禄で、体温の高低に関わらず、細胞分裂を止める有効な方法が実用化できてしまって困ってるんです」 「いよいよ不老不死が実現化されるのか? それなら、まず誰よりも先におまえに、おまえを今のままの姿にとどめておく処置を施すべきだな」 「全身に施療できるわけじゃありませんよ。それに……」 氷河の手の動きのせいで、瞬は微かに顔を仰向かせた。 「あ……僕はその時が来たら、ちゃんと死にたいです」 「死にたい? 何故だ」 「永遠は恐い……」 「瞬?」 瞬ほど恵まれた才能と環境と容貌を――そして、おそらくは幸福も――手にした者が、死を願うということが、氷河には意外だった。 それは、永遠や不死に最も近い場所にいる瞬だからこその考え方なのかもしれなかったが。 「あ、ええ。で、処置を施せるのは身体の一部分だけですし、まだ、マウスでの実験が成功しただけですから」 「ふん。しかし、かなり有効な遺伝子治療法ではあるな。がん細胞の増殖を止めることもできるのか」 「ええ、がん細胞でも脳細胞でも体細胞でも生殖細胞でも」 「脳細胞や生殖細胞にもか……」 それは使い方を誤れば――故意に誤ることもできるのだが――危険な事態を招くことになる。その程度のことは、天才ならぬ氷河にもすぐにわかった。 「……新しい細胞ができないということは新陳代謝が止まるということです。身体が生きながらに……そうですね、石化すると思えばいい。施療する部位にもよりますが、脳や生殖器官に施療したら容易ならざる事態を招くでしょう」 「まったく、困った天才少年だな。そんな危険なことの実用化なんてできるようになるんじゃない。これが冷戦時代だったら、おまえは多分、今、旧KGBのいちばんのターゲットだぞ。要人脅迫にもってこいの方法じゃないか」 氷河は思わず、自分の得意分野での活動をやめてしまった。 瞬が緊張感から解放されたように肩で大きく息をつき、だが、少し恨めしげに氷河の顔を覗き込む。 「拷問されたり洗脳されたりする前に、僕はぺらぺら喋ってしまいますよ」 「その方が安全だ」 「元に戻す方法さえ、わかっていれば……」 「……ああ、そういうことか……」 毒を使おうと思ったら、解毒剤の準備が必要である。 それが、どうやらまだできていないらしい。 となれば、瞬の研究の“余禄”は誰にも知らせることのできない、危険な“成果”である。 「元に戻すやり方が、うまくいかないのです……」 「石化処理をしたら、アタマもここも死にっぱなしか」 “ここ”を瞬の脚の根元に押し付ける。 瞬は、両の腕を氷河の背にまわしてきた。 「氷河とは、こんな話はしたくありません。もう、やめましょう」 氷河は、もちろん、自分の雇い主の言葉に従った。 瞬の求める愛撫やキスを求められるままに与え、瞬がそれに酔い朦朧とし始めたところで、瞬に触れるのをやめる。 「ごまかすな」 「ひょう…が…?」 突然中断された愛撫に戸惑って、瞬がそれまで固く閉じていた目を微かに開ける。 瞬の肩の脇に両手をついた氷河が、半ば上体を起こして、瞬を見おろしていた。 「それだけじゃないだろう」 それくらいのことで、人に憂い顔を見せる瞬ではないことを、氷河はよく知っていた。 そんなことは、研究を進め、実験を重ねていけばいつかは解決される問題である。 瞬は、努力で解決できるようなことで沈んだりはしない。 瞬はそういう時には努力を重ねるしかないことを知っているし、その努力を厭うこともない。 瞬を沈ませるのは、いつも、己れの努力だけでは解決できないことだけなのだ。 「氷河……!」 「正直に言わないと、この先をしてやらないぞ」 「氷河……っ!」 とんでもなく卑怯な脅迫をしてきた男を責めるように、瞬は氷河の名を口の端にのぼらせた。 切なげに身悶えつつ、その脅迫に抵抗しようとして、四肢に緊張を取り戻そうとする。 だが、その抵抗が徒労に終わることは、瞬には最初からわかっていた。 抵抗し続けることができるはずがない。 とにかく、瞬の身体の全感覚が、それを欲しているのだ。 瞬は、無駄とわかっている抵抗はしない主義だった。 「ひ…氷河が以前いた組織の人が、その情報を入手するために僕に近付いてきて――」 「それで?」 「彼が、氷河に似てるから、辛いの…っ!」 「なるほど」 目的のものは手に入れたというのに、卑怯な脅迫者は、それからもしばらく瞬の身悶える様を眺めて、たっぶりと目の保養をした。 |