グラード財団の企画本部長である瞬の兄が、全くの管轄外であるゲノム・ラボラトリーにやってきたのは、その翌日。 一輝は、氷河が昨夜手に入れた情報を既に入手済みだったのだろう。 瞬の様子を見るために彼がラボにやってきたのは明白だった。 彼には、他にラボに用事などないのだから。 「どうも最近、瞬が俺に所内での雑用を頼み込んで、一人で外出することが多いと思ったら」 とっとと情報を回せというつもりで告げた氷河の言葉は、氷河が意図したようには一輝に伝わらなかった。 「今頃気付いたのか、相変わらずとろいな」 ゲノム研究になど全く興味のない一輝が、万一弟の様子を気にしてラボまでやってきたのでないとしたら、その目的は弟の情人に嫌味を言うためだったろう。 「瞬が一人で外出したのは、一昨日を入れて3回だけだ」 「最初の外出で気付け。阿呆」 「…………」 気付かずにいた自分に、氷河はそれでなくても腹を立てていたのである。 そこに、たとえ太陽が西から昇るようなことがあっても好感を持てないだろう相手にそんなことを言われて、氷河は口許を引きつらせた。 瞬の兄でなかったら、顔も合わせたくない相手である。 不愉快になることがわかりきっているというのに、氷河がこの男に会わざるをえないのは、ひとえにこの男が瞬に関する情報を握っているからだった。 「……で?」 この男の皮肉や嫌味は聞き流すに限る。 氷河は阿呆呼ばわりされたことは無視して、瞬の兄に尋ね返した。 一輝がその件を隠そうとしないということは、氷河に何かをさせようとしている――させざるを得ないと思っている――からに違いないのだ。 「本名は、舌を噛みそうな名だ。通り名はアイザック。貴様が以前いた組織に、貴様と同じ時期に入ったようだな。結構ウマが合っていたようじゃないか。ああいうところの連中は横の繋がりを避けるものだと思うが、まあ、貴様は不出来な諜報員だったようだしな」 「…………」 いちいち皮肉と一緒でないと用件を言えないのかと、いい加減、氷河も一輝の物言いに苛立ち始めてきていた。 それはともかく。 アイザックという名を、氷河は記憶にとどめていた。 氷河は、自分が以前属していた組織を、実はかなり気に入っていたのである。 そういう組織特有のことではあるが、組織内の人間関係は非常にドライで、湿っぽいところがない。 一度惹きつけられたものにはとことんまで執着するが、もともと他人に興味を抱くことが少ないタイプの人間である氷河は、必要でなければ相手の名も覚えない。 当然、その数も少なかったし、今ではほとんど忘れかけている。 その中で、『アイザック』は、仕事で関わったことがないにも関わらず、氷河が名を憶えている唯一の人間だった。 彼は氷河とは同年代であったし、生い立ちや環境、酒の好み、そして、何より人生観が似ていたのだ。 一言で言うなら、エピキュリアン、である。 死後の世界は無い。 故に、刹那的に今を楽しむ。いつも“今”を楽しめていたら、満足して死を迎えられるはずだ――という。 そのためには、人にも物にも執着を持たずに生きているのがいちばんだ――というのが、当時の氷河とアイザックの共通した人生観だった。 実際、氷河はそういうふうに生きていたのである。 瞬に出会い、瞬の信頼を裏切りたくない、瞬に愛されたいと思うようになるまでは。 アイザックとの友情のようなものも、全く執着という感情を含まないものだった。 彼に裏切られても簡単に許せただろうし、誤解されても放っておいただろう。彼が突然姿を見せなくなっても、心配して捜しまわるようなことはしなかったに違いない。 そういう生き方は、ある意味、確固たる主張のない生き方、場当たり的な生き方でもある。なにしろ、“明日”というものを考えることがないのだから。 流れに乗って、良い場所に着けばそれでよし、具合いの悪いことになったら運が悪かったのだと諦める。 気楽で潔いその生き方は、考えようによっては、執着できるものを持たない人間の不幸な生き方でもあったかもしれない。 瞬に出会って――執着できるものに出会って――、氷河は初めて、それまでの自分を“不幸”だったのだと思うことができるようになったのだった。 |