「一輝から聞いたぞ」

瞬を心配しているという点で、氷河が一輝に劣るわけもない。
なにしろ氷河は、“瞬の兄”という立場にしか立っていない一輝と違って、自分の雇い主を守ることを仕事とする瞬のボディガードであり、分別も理屈も、瞬の意思すら無視してその身を案じることを許された、瞬の恋人でもあるのだ。

「兄さんが教えたんですか?」
「ふん。おまえのやり方を尊重すると言いながら、やはり心配なんだ。俺に、おまえのガードにつけと暗に言っているんだろう。おまえが何と言おうと、次の“外出”から、俺はおまえのガードにつくぞ」

それでも、瞬をあまり無力・無防備な子供扱いして、瞬にうっとおしがられるような事態を招くつもりはなかった氷河は、
「なるべくおまえの邪魔をしないように、距離は置いてやる」
と、言葉を継ぎ足した。
氷河は“瞬の兄”ではないから、瞬に疎んじられるようなことになれば、二人の関係は破綻するのである。
それは、氷河の本意ではなかった。

氷河のその用心は、今この場では気のまわし過ぎのようだったが。

「あの人、本当に氷河に似ているんです……」
瞬はぽつりと、そう呟いた。

瞬が怖れているのは、アイザックが氷河と同じことをするかもしれないという危惧だったのかもしれない。
氷河は瞬を――自分を信じてくれている者を――裏切らないために、彼自身を危険の中に投じた。
“信頼”というものは、必ずしも良い事態だけを招くものではないのだ。


「……おまえは人を騙すのに向かない」

瞬のやり方は、考えようによっては狡猾である。
秘密を探り出そうとして近付いてくる者に秘密を教え、その上で相手の出方を見る。
瞬がそのやり方にこれまで――少なくとも、氷河に出会うまで――さしたる罪悪感を感じることがなかったのは、もしかしたら、秘密を手に入れた者たちがいつも瞬を裏切ってくれていたからなのかもしれなかった。

「詭弁に聞こえるかもしれませんが、僕は騙しているつもりはないんです……」

氷河と暮らすためにラボの施設を出た瞬が購入したマンションの一室は、所有者がどこか浮世離れしているせいか、生活臭というものがあまり感じられない。生活するための雑事のほとんどを、氷河と瞬はこの部屋ではない場所で済ませていた。

「信じたいから、こうするんです。僕は、彼を信じるための材料を持っていませんから」

この空間は、彼等が互いに信じ合っていることを語らい、確かめ合うための空間だった。

「僕は……人間の根本的な善意は信じてます。でも、無条件に人を信じるほど子供ではないの。僕だって、たとえば、氷河を守るためにだったら人を騙すこともあるかもしれない。真実を言わないこともあるかもしれない。だから、ほんとは騙されてもいいの。それが誰かの幸福のためなのだったら、騙されても構わないの。僕は……騙されるにしても、そうでないにしても、その理由を知りたいだけなのかもしれない……。知って、納得して、許したいだけなのかもしれない」

瞬の言うことは、氷河にもわからないわけではなかった。

人は存外簡単に他人を騙すことのできる生きものである。
実際、瞬に出会うまでの氷河は、人を騙すことで自分の生活の糧を得ていた。
氷河はそれまで、自分が騙す相手に人格というものを認めていなかったから、そうすることができていたのだ。
しかし、人はまた、それがたとえ人格を認めている相手だったとしても、“誰か”のためならば、騙すことができるのである。

自分にとって大切な“誰か”。
その“誰か”を守るためならば、やはり人は良心の呵責に打ち勝つことができてしまうのだ。

氷河が瞬を騙し続けていられなくなったのは、彼のその“誰か”が、あろうことか、自分が騙している相手その人になってしまったからだった。
それで、氷河に瞬を騙し続けることができるわけがない。

「無条件に人を信じないのは賢明だ。しかし、おまえに万一のことがあったら、俺は……」
「大丈夫。氷河に護身術は教えてもらったし、僕、結構優秀な生徒だったでしょう?」

「そうはいってもな」
と言いながら、氷河は瞬の腕を掴んで後ろ手に軽くひねりあげた。
そうして、身動きができなくなった瞬の耳元に唇を寄せていく。
「こうされたら、おまえは身動きが……」
とれないだろう? ――と氷河が言い終える前に、瞬は掴みあげられた手首を逆にひねる形で氷河の手をするりと外していた。

「こうします」
氷河の正面にまわった瞬の手はいつのまにか、氷河の手首を逆手に掴んでいる。
「僕、兄さんにも色々教えてもらったの。大丈夫。武器や薬を持ってこられない限り」
「持ってきたら?」 
「抵抗はしません。何かはったりをかまして、僕には生かしておく価値があるのだと思わせます。無茶はしませんから」 
不安の色の無い瞳で微笑する瞬に、氷河はかえって不安を募らせた。

「おまえは……はったりなんかかまさなくても生かしておく価値があるから心配なんだ」
「え?」
戸惑いがちに小首をかしげた瞬を、氷河がそっと抱きしめる。
「こうしたいと思う男が多いはずだ」

「氷河以外に?」
氷河のその言葉を、瞬は微笑って受け流した。

そんなことを、瞬はこれまでただの一度も考えたことがなかった。
抱きしめたい、抱きしめられたいという気持ちは、普通は異性間に生まれる気持ちである。
瞬は、自分たちは特殊な事例なのだと思っていた。
自分たちの間には、何か特別な――自分は氷河に、氷河は自分に惹かれるような特別の――遺伝子の配列が組み込まれているのだ――と。






【next】