「あの……本当に、氷河を解放してくれませんか?」

瞬の沈着ぶりが理解できずに当惑しているアイザックに、瞬は困ったような顔で尋ねた。
ほとんど、駄々っ子をいなす大人のような口振りで。
「殺す気がないのなら、解放してくださってもいいでしょう?」

「う…腕か脚の筋をずたずたにして、一生自分の力で立ち上がることも、ものを持つこともできなくしてやるくらいのことをしてからならな」
アイザックは上位者としての自分の立場を保とうとして必死のようだった。
相手が瞬では、それは無駄な抵抗というものなのだが。
立脚している理屈の次元が違うのだ、瞬とアイザックとでは。

「そんなことはしない方が利口です。それは、僕を喜ばせるだけのことですから」
「なに?」
「僕のせいで、氷河がそんなことになったら、僕、責任をとるっていう名目で、一生氷河の世話をしていられますから。一生、氷河を僕の側に置くことができる。こんな嬉しいことはありません」
瞬はいたって真顔だった。

「そこを使い物にならなくしてやるのはどうだ。男としては最大の屈辱だろう」
アイザックが、再び例の拷問方法を口にする。
しかし、それも暖簾に腕押しだった。
「ごめんなさい、僕、氷河の髪の毛1本あれば、氷河の体の部位なんてすぐ再生できちゃうんです」
「…………」

瞬の面差しが可憐なだけに、瞬のその言葉にアイザックは混乱の度を深めてきている。
氷河は、瞬を知ったばかりの頃の自分の戸惑いを思い出して、アイザックに少々同情した。

素直で正直で邪気のない子供――。
大人になってしまった人間は、あるいは大人の振りをしている人間は、それが苦手なのである。
穢れを当然と思っている人間は、無垢を理解することができず、理解できないことで無垢を怖れるのだ。

「じゃあ、俺は、どうすればこいつを痛めつけられるんだ…!」
アイザックの声は、氷河には、追い詰められた人間の悲鳴のように聞こえた。

「そうですね……。痛みを感じる心を無くしてしまうのがいちばん……でしょうか」
瞬はどうやら、アイザックの悩みを解決すべく、真剣に考えた――らしい。
真面目な面持ちで恐ろしいことを言う瞬に、アイザック同様、氷河もまた泣きたい気分になった。
その“心を無くしてしまえばいい人間”が自分の恋人だということを、瞬はわかっているのだろうか――と。

「殺すしかないのか」
瞬が考えてくれた“答え”を、アイザックが直接的な言葉にする。
しかし、それがある意味、死にゆく当人にとっては大した苦痛ではないことを、アイザックは知っているはずだった。

「……そうですね、それはあまり有効な方法じゃありませんね。死は、祝福された、辛苦と苦悩の終わりの時でもあるから」
瞬は、相変わらず、アイザックのために真剣そのものである。

考えも尽きた様子で、瞬はアイザックに尋ねた。
「あなたはどういう時、傷付くの」

「……傷付く? 俺が? 俺は傷付いたりはしない」
返事を返す時点で、既にアイザックは瞬のペースに乗せられている。

「嘘ばっかり。でも、それが真実なら、あなたは人を傷付けることはできないでしょう。そうしようと意識して人を傷付けるのも、傷付いた心を癒すのも、傷付くことを知っている人にしかできないことです」
「…………」
「……傷付くことを知らない人にできるのは、意識せずに傷付けることだけです。傷付けようと思ったって、思った通りになんかできません。本当に、あなたが、これまでただの一度も傷付いたことがないというのなら、あなたに氷河を傷付けることはできません」

「き…傷付いたことくらいある!」
完全に、瞬のペースだった。

「この野郎が組織を裏切った時! どこぞのガキに入れあげて、仲間もそれまでの生活も家も金も何もかもを捨てた時に、俺はこいつに裏切られたと思ったさ!」

悪戯を咎められていた悪童が、言い逃れの言葉を全て打破されて、最後に出てきた本音。
それは、そんな響きを持った“答え”だった。






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