「それは……」 瞬の瞳に、初めて翳りが射す。 意図したことではなかったとはいえ、氷河に“友人”を裏切らせた当の本人には、アイザックに何も言うことができなかったのである。 それは、氷河も同様だった。 瞬に出会う以前の氷河にとって、アイザックは唯一の友人だった。 しかし、氷河の心には、“友人”などというものを作ったり、あまつさえ、その“友人”を信じたりすることは愚かなことだと思う――思おうとする――気持ちがあったのだ。 人を信じないことが“格好のいいこと”だと、人に裏切られるのは“格好の悪いこと”だという気持ち。 だから、氷河はアイザックを“友人”だなどとは思わないようにしていたし、彼を信頼するような馬鹿なことはすべきではないと思っていた。 アイザックも同じような考えでいるのだと思っていたのだ。 実際、アイザック自身も、そういう“男の美学”というものを標榜していた。 “男の美学”が“痩せ我慢”なことくらい、少し考えればわかりそうなものだというのに。 自分が信じようとしていなかったから、相手もそうなのだと思っていた。 信じて裏切られるのは不様で愚かなことだと思っていた。 氷河は、そう思っていたのである。 瞬の――瞬のまっすぐな瞳に出会うまでは。 裏切られることを怖れる様子もなく、まっすぐに自分を見詰めてくる瞬の、優しく暖かく力強い眼差しに出会うまでは。 そして、その出会いが、氷河に“友人”を忘れさせた。 氷河は、自分を信じてくれる者に夢中になった。 瞬だけは――瞬の信頼だけは――他の何を捨てることになっても失いたくないと思った。 まっすぐに自分を見詰めてくれる相手。 裏切られたら、裏切られた自分を愚かだなどと思いもせずに、素直に涙するのであろう相手。 アイザックに、その時の自分の気持ちを告げて、彼の理解を得ることができるものだろうか。 そんなものを求めるのは愚か者だというポーズをとりながら、心の底では希求していたものに巡り会えた時の歓喜。 それは、氷河に他の全てを忘れ去らせるほどの歓喜だったのだ。 「裏切った……わけじゃない。俺が裏切ったのは組織であって、おまえじゃない。おまえはいい仕事仲間で、いい飲み友達だった」 思いがけない“友人”の言葉に戸惑いながら、氷河が口にした言葉は歯切れが悪かった。 『俺は今初めておまえを友人だと思った』 ――とは言いにくかったのだ。 「組織を裏切ったのが、俺を裏切ったことになるんだ。俺たちは、組織の下で繋がっていたんだからな」 「おまえを裏切ったつもりはない。ただ、俺は、瞬を裏切りたくなかったんだ」 「そのために全てを捨てたと言うのか! それまでに培ってきた実績も家も仲間も金も自分の身の安全すら!」 真情を告げて、アイザックの理解を得られるものだろうか? という疑念が、氷河の中には依然としてあった。 しかし、氷河は彼の“友情”に応えるために、“それ”を告げた。 「おまえにもわかる。そういう相手に出会えば。俺の生きていることを肯定してくれて、俺を信じてくれて、安らぎをくれて、俺を愛してくれて、俺に愛されてくれて、俺の信頼を重荷に思わずに俺を受け入れてくれる相手……」 「…………」 アイザックは、氷河のその言葉に、ふいに新たな不愉快さを自覚した。 のろけ、である。 これは、どう考えても。 散々のろけておきながら、のろけを告げている相手を見ずに、瞬を見詰めている氷河に、アイザックは思いきりムカついてしまったのである。 「貴様、今、自分の置かれている状況が理解できているのかっ !? 貴様は今、逃げられない捕縛を受けて、貴様の可愛子ちゃんは俺の手の中にあるし、俺はその気になれば、貴様を始末することぐらい簡単に……」 アイザックの脅しを遮ったのは、妙に明るく屈託のない瞬の声だった。 「自分を傷付けることになるだけですから、それはやめた方がいいと思いませんか? 僕、感動しました! 諜報活動をしている方々は仕事の遂行が第一で、そのために友情や愛情を軽んじることがクールでカッコいいなんて馬鹿なことを考えている人が多いのかと思っていたのに! あなた、氷河のお友達なだけあって、とても暖かい心を持った方ですね!」 自分の置かれている状況がわかっていない(ということになるのだろう、アイザックの認識では)瞬は、全くもって朗らかの極みだった。 「ほんとは、氷河のお友達にしては恐そうな人だと思っていたんです。良かった、強面はただのポーズだったんですね…!」 氷河を陥落させた、あのまっすぐな瞳を、瞬がアイザックに向ける。 アイザックの横顔に一瞬走ったたじろぎの色に、氷河は内心で舌打ちをした。 駄目なのである。 アイザックのような男に、そんな視線を向けてしまっては。 彼が、瞬の瞳の中に何を見いだすのか――それがあまりに容易に想像できて、氷河は苛立った。 が、アイザックは、抵抗を――考えるまでもなく、無駄な抵抗を――試みた。 瞬の瞳の中にある、孤独な男にとっては魅惑的すぎる“それ”に。 「俺が言いたいのはそういうことじゃなくて……!」 その時、アイザックの背広の内ポケットに収まっていたらしい携帯電話が、微かに振動した――らしい。 外部からの接触を受けるはずのない電話だったのだろう。 怪訝な顔になったアイザックの意識が、瞬と氷河から逸れたその瞬間に、これまた開くはずのないドアが開く。 開いたドアの前には、そこにいるはずのない男が立っていて、彼は、善良な市民が持っているはずのないニードル銃をアイザックの腕を狙って発射した。 彼の撃った数本の針は、銃の持ち主に至極従順かつ有能だった。 アイザックの身体は微かな呻き声すら洩らさずに、その場に崩れ落ちたのである。 「象も2分で身動きできなくなるほど強力な麻酔薬だ。そのまま大人しく寝ていろ、坊や」 一輝のその言葉が終わる前に、それまで余裕に満ちてアイザックの相手をしているようだった瞬が、半分泣きそうな顔をして、床に転がされていた氷河の許に駆け寄ってくる。 「氷河っっ !! 」 その瞬の後ろで、床にうつ伏せた格好のアイザックが悔しそうに氷河を凝視していた。 「……わかったぞ。おまえを傷付ける方法――」 アイザックは掠れた声でそれだけを言い、象よりは早く眠りの手に抱きすくめられてしまった。 自分の放った銃の効果を確かめもせずに、一輝が、瞬にきつく抱きしめられている氷河の前に歩み寄ってくる。 無意味なまでに高価な靴を履いたその男は、下目使いに氷河を見下ろすと、まるで蛇蠍を踏み潰す人間のそれのような言葉を、氷河の上に吐き出した。 「ふん。いいザマだな」 氷河は、 返す言葉もなかった。 |