「僕、何ひとつ嘘は言ってないの」

瞬の、アイザックとの駆け引きの妙を褒めた氷河に、瞬は軽く左右に首を振って微笑んだ。

「彼が勝手に僕の言葉には裏があるはずだと思い込んで、一人で混乱してただけ」

「…………」

聞けば、細胞の石化解除の方法についての研究もまだ五里霧中状態だという。
あっけにとられた氷河に、瞬は悪戯な子供のような眼差しを向けてきた。
「人はね、正直でいるのがいちばん。正直な人間がいちばん奥が深いの。そう感じるものだと思うよ、嘘をつき慣れている人は」

「……かもしれないな」

氷河自身、瞬に初めて会った頃――まだハードボイルドを気取っていた頃――、瞬を子供だと思いつつ、その素直な言葉とまっすぐな感情を怖れ、そして、否応もなく惹かれていった――のだ。


「すまん、ドジなボディガードで」
瞬になら、自分のミスを素直に認め、謝罪することもできる。
自分の愚かさ、失敗、醜さ――それらを糊塗しようとせずに生きることが、生きられることが、どれほど人間を幸福にしてくれるものか――を、氷河は瞬によって知らされた。
そういう気持ちになれる相手に巡り会えたことを幸運と思える気持ちも。
その相手が自分を愛してくれていると信じられることの至福も。

「氷河は僕を守ってくれたよ」

しかも、瞬は優しく、賢明で、美しく可愛らしい。

「氷河が守ってくれてるのは、僕の身体じゃないの。僕の、人を信じる心なの。氷河は僕に人を信じさせてくれるの。氷河が冷徹で有能な諜報員じゃなかったことで、僕がどれだけ幸せになれたか知ってる?」

「……知らなかった……」

「じゃあ、知って。そして、忘れないで」

氷河の幸福の全てを形作っているものが、微笑みながら氷河からのキスを待ってる。
氷河は、自分の幸運に目眩いさえ覚えていた。

「忘れない」
そう囁いて、瞬を抱きしめる腕に力を込める。

その身体を抱きしめる自分の腕を長すぎて不便だと思うほどに華奢な、瞬の肢体。
その細い身体の内には、しかし、どんな屈強な男にも太刀打ちできないほどの“力”が潜んでいる。

瞬の肌の春の花のような香りを嗅ぎながら、氷河は、自分の心には特殊な遺伝子情報が組み込まれてしまったのだ――と思った。
瞬に出会った瞬間に、その情報が組み込まれた細胞が一つ、自分の心の中に飛び込んできたのだ――と。
その細胞は、瞬の瞳に出会うたび、瞬の身体を抱きしめるたび、徐々に数を増し、そして心の全てを、身体のすべてを支配していく。
瞬を愛するように、瞬を愛しむようにと、その細胞は氷河に命じるのだ。


それは、何という心地良い支配だろう。
人を愛し、信じられるということの、恐ろしいほどの高揚感。
一度その歓喜を知ってしまったら、それは麻薬のように人間を支配してしまうのである。


氷河は、そして、溺れていったのだった。
彼に、その歓喜を与えてくれるただ一人の人間の温もりの中に。






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