「へえ、瞬ちゃんて言うんだ。どーして、こんなとこに迷い込んできたんだい?」
「とりあえず、電話番号、教えてくれる?」
「この近所にはガソリンスタンドないんだよ。しばらく、ここに滞在したらどーかな」
「面白い見世物があるんだ、瞬ちゃんには退屈させないよ」

命のやり取りをするような戦闘のない日々が続けば、歴戦の勇者もただの軟派野郎になりさがる。
ギリシャ神話最大の英雄ヘラクレスはリュディアの王妃オンパレーの許で、女装して自堕落な日々を過ごし、トロイアの英雄アエネアスはカルタゴの女王ディドーの許で、トロイア再建の宿望をしばし忘れ、智将オデュッセウスは女神カリュプソーの許で7年もの時を徒に過ごした。
コロッセオ前の広場では、まさにそういう光景が繰り広げられていたのである。


「しゅ……」
怒りに燃えて、その群れの中に飛び込んでいこうとした氷河を引き止めたのは、義と友情の士、紫龍である。
「氷河、やめておけ」
「何故止める」

「冷静になって考えてみろ。今、瞬を取り囲んでいるのは飢えたオオカミたちだ」
「だから危ないんじゃないかっ!」
「あれが一般人だったなら、俺も止めはしない。怪我はさせるなと忠告するだけだ。しかし……」

心底から危惧しているのかどうかには疑問の余地が残るが、紫龍は、前方不注意の――と言うよりは、前方しか見えていない――氷河に、一見思慮深そうな表情で忠告した。
「あのオオカミたちは全員が、俺たちより高位にある白銀聖闘士や黄金聖闘士、しかも、一人ならともかく数十人で群れを成している。瞬といい仲だと知れたら、殺されるぞ、おまえ」

「殺されても構わん!」
前方しか見えていない男には、当然のごとく、その忠告は無駄だった。

「おまえが殺されたら、瞬が泣くだろう」

「泣くだけならいいけど、瞬は世界を滅亡させかねないぞー」
星矢が、これは本心からの憂いを伴って、しかし、冗談混じりにぼやく。


アンドロメダの聖闘士の力は未知数である。
瞬の“本気”の段階が、どこまであるのかを知る者は、この世にはいないのである。
いないからこそ、世界はまだ存在しているのだ。

氷河にとって、世界の存続と瞬の独占権のどちらがより重要なものであったのかはわからない。
世界の命運を危惧する星矢の言葉に氷河が何らかの反応を示す前に、シルバー・ゴールド合わせて30人強の聖闘士に囲まれていた瞬が、氷河の姿に気付いて、彼の名を大声で呼んだからである。

「あ、氷河―っっ !! 」
“世界”をその手に掌握しているアンドロメダ座の聖闘士は、自分が今置かれている状況を理解しているのかいないのか、異様に元気よく、ぱたぱた氷河に手を振ってきた。


途端に、瞬を取り囲んでいた黄金聖闘士、白銀聖闘士たちが一斉に氷河に視線を集中させる。
退屈が作った軟派集団の視線は、まるでコミケ会場に迷い込んだアヒルでも見るかのように、不審の念に満ちていた。

「何者だ、こいつ。新顔だな」
「確かカミュの弟子の……」
「白鳥座の青銅聖闘士だ」
「そのぺーぺーの青銅聖闘士が、瞬ちゃんとどういう関係だって?」

「瞬は、俺の……」

問われたなら答えずにはいられない氷河を、紫龍は横からド突き倒した。
「あー、イトコなんです、氷河の。もー、おとなしそうな顔してるくせに野次馬で、どうしても天下一武道会を見た――違った、アテナの祭祀を見たいと言い張って、氷河の後をつけてきたんです。そうだな、瞬」

「紫龍、どーしたの? 何言ってるの?」
「しっ。いいから、ここは俺に話を合わせろ。氷河の命がかかっている」
「え?」

事情は何も把握できていなくても、瞬は利口である。
かてて加えて、その鉄壁の防御には定評がある。
防御に優れているということは、取りも直さず、危険察知能力に秀でているということでもあった。


要するに、瞬は素早く紫龍に調子を合わせ、その場は何とか平穏に収まり、そして、氷河は命を永らえることができたのである。






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