氷河の口から出てきた言葉は、
「俺はぐれる」
――だった。

星矢は一瞬あっけにとられてしまったのである。
なんとか気を取り直し、星矢から見れば馬鹿としか言いようのない脅迫に及んだ氷河に、呆れたような視線を向ける。
「今更おまえがどーやってぐれるんだよ」

氷河はずっと以前から――父親に引き取られた時分から――既に“ぐれて”いた。
少なくとも、星矢はそう思っていたのである。

「瞬に見捨てられたら、何もしなくても俺はぐれることになる。ぐれるというのは、自分に自信が持てなくて、自分に存在価値を見いだせなくて、それでも生きて存在していたいと足掻くことだろう。俺は瞬が生きている限り、死ねないからな」
「おまえから自信を取ったら、何が残るんだよ」
「せいぜい、この美貌くらいだ」
「あ、そりゃ、おまえじゃないや」

どこまで行っても漫才にしか聞こえない星矢と氷河のやりとりに、瞬はくすりと笑いもしない。
瞬の受けた衝撃の大きさを慮って、紫龍は右の眉をかりかりと掻いた。


「瞬、わかってくれ。おまえが、俺なんかからすれば、高嶺の花だということはわかっている。俺は確かに、おまえから見たら良質の人間じゃないだろう。しかし、そんな人間だからこそ、俺にはおまえが必要なんだ」

氷河の必死の訴えを聞いて、事態の深刻さがわかっているのいないのか、星矢が小声で紫龍に尋ねる。
「いつになく謙虚じゃん。もうぐれてんのか、氷河の奴」
「事実を言っているだけだろう」
言われてみればその通りだったので、星矢はすぐに納得した。
星矢が絡むと、相手が誰でも漫才である。


「そ…その認識が変です! 氷河こそ、登校拒否にでもなっていなかったら、僕なんかには近付けないような人なのに……!」
「……? おまえは何を言ってるんだ」

対して、星矢が絡んでいない瞬と氷河のやりとりはシリアスこの上ない。
瞬は、自分の言っている言葉に理がなく感情しかないことをいことに気付いて、口をつぐんでしまった。
「…………」

「おい、瞬は何を言っているんだ」
「まあ、おまえが、どこぞの金持ちの御曹司で、グラードの元生徒会長で、とりあえず、性格以外は一級品ということ…かな」

紫龍の説明を聞いて、氷河が僅かに瞳を見開いて瞬を見やる。
瞬にそんな価値観があることが、氷河には意外だった。

「……そうなのか」
「……だって、僕、お人好しなとこだけを買われて生徒会長してるような子だもの。成績だって、グラードの人に比べたら……」
「人間の価値はそんなもので決まらない。だいいち、おまえはただのお人好しじゃないだろう。おまえは、俺と同じ……」

『実ノ親ニ見捨テラレタ子』

言葉にされなくても、瞬にはわかっていた。
考え方も、性格も、現在の境遇も、何もかも違う瞬と氷河の――否、ここにいる4人の――共通項はそれだけだった。

「…………」

「野良猫に言っていただろう。おまえは絶対にあの猫を見捨てたりしないと」

「…………」

「おまえは、俺を見捨てたりしないな」

命令形で、すがるように氷河に言われ、瞬は俯いたまま横に首を振った。
「見捨てるも何も、氷河は最初から僕なんか必要じゃなかったんでしょう! なのに、僕は何も知らないで、氷河の力になれてるんだと思って、嬉しがったり……嬉しがったりして……!」

それが、瞬は悲しかったのだ。
氷河に騙されていたことではなく。
氷河に必要とされ、氷河の力になれていると思っていた。そう思って喜んでいたことが、その喜びが嘘だったことが。


「俺は、自分に必要じゃないものに、自分から近づいたりはしない」
「だったら、どうして僕なんかに……!」
「おまえが必要だからだ。他に理由はない」

「僕がどうして必要なの! 氷河は何だって持ってるじゃない」
「俺は何も持っていない。だから、何かが欲しかった」
「何も持ってないことなんてないじゃない…!」

「……どう言えばわかるんだ」

氷河の呟きに、瞬はまた首を左右に振った。
まるで、泣いている駄々っ子のような仕草で。

わからせて欲しいと、瞬が望んでいるのは、誰の目にも明らかだった。

なので、星矢と紫龍はとりあえずその場を外すことにしたのである。

「お、気が利くな」
「おまえに睨まれると、後が怖い」


そう言いながら、彼等が動くのは瞬のためだけなのだということは、氷河にもわかっていた。






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