しあわせのうた


〜 まりあんさんに捧ぐ 〜






音楽室の扉を開いた氷河は、ピアノの前にいる人物を見て、目をみはった。

「こんなふざけた曲を弾くのは、星矢だとばかり思っていたのに」



晴れた夏の夜。
中天には、ペガサスやアンドロメダ座が輝く時刻。
どうせなら、ショパンのノクターンやドビュッシーの月光あたりを聞きたいような夜なのに、その夜、音楽室から響いてきた音色は、

ミレドレミミミ レレレ ミソソ ミレドレミミミ レレミレド ♪

――すなわち、『メリーさんの羊』だったのだ。
無論、人差し指1本での演奏である。

氷河の言葉に、瞬はぷっ☆とむくれてみせた。
「ふざけてて悪かったね! これしか弾けないんだから、仕方ないじゃない!」

よほど恥ずかしかったと見えて、瞬が膨らませた頬は薄紅色に上気している。
氷河は口許に微苦笑を浮かべながら、瞬とピアノの側にやってきた。

「怒るな。おまえのために、モーツァルトを弾いてやろう」

「氷河、ピアノ弾けるの?」
「まあ、ほんのたしなみ程度だが」

椅子を氷河に譲ろうとした瞬を左手で制した氷河が、その肩越しに右手だけで演奏し始めたその曲は、

ドドソソララソ ファファミミレレド ♪

つまり、
「なに、これ。きらきら星じゃない」
――だった。

「モーツァルトだろ?」
「きらきら星はフランス民謡。きらきら星変奏曲になって、初めてモーツァルトなの!」

馬鹿にされたと思ったのか、瞬の頬はますます膨れていく。
決してふざけていたわけではなく、ピアノが弾けないのは瞬だけではないのだと知らせるための演奏をしたつもりだった氷河は、瞬の怒気に触れて、両の肩をすくめてしまった。

「ま、ピアノなんて弾けなくたって恥じゃないだろ。俺たちには、ピアノなんて習ってる暇も機会もなかったんだし」

「……うん」

氷河の言う通りである。
その通りだったので、瞬は顔を伏せた。

「そんなに……弾きたいのか」
氷河には、瞬がピアノに固執する訳が、まるでわからなかった。

瞬自身にも、固執しているつもりはなかったらしい。

「そんなことないよ。ただ…」
「ただ?」
「子供の頃は、沙織さんが羨ましかった…かな。僕たちが取っ組み合いの喧嘩をさせられている時に、沙織さんは――」


「瞬……!」
氷河が瞬の言葉を遮ったのは、扉の前にある、当の沙織の姿に気付いたからだった。

瞬も少し遅れて、氷河の視線の先にあるものに気付く。
気まずさに、瞬は自分の視線を鍵盤の上に戻した。

瞬は、決して沙織を責めているわけではなかった。
沙織もそれは承知していただろう。
瞬はただ、羨ましかった――人を傷付けずに済む立場にいる沙織が、純粋に羨ましかっただけなのだ、と。

「教えてあげましょうか」
それは沙織のせいではない――少なくとも沙織だけのせいではなかった。
それでも、沙織が瞬にそう言ったのは、自分の意思ではない力によって、自身は望んでいない子供時代を過ごすことを余儀なくされた瞬の、その時間を少しでも償えるのなら――と考えてのことだっただろう。

瞬は瞼を伏せたまま、横に首を振った。
沙織に責任のないことで、償いなど求めるわけにはいかなかったし、それ以上に、瞬には、『自分は、本当はピアノなどに触れてはいけないのだ』という意識があったのだ。
それは、罪悪感にも似た感情――だったかもしれない。

「いいんです。ピアノを弾きたいなんて、ほんのちょっとした思いつきだったし、それに……絵や音楽って、僕みたいに人を傷付け続けてきた者には、携わる権利がないような気がします……。すみません、急に変なこと言い出して……」

「そんなことはありません!」

微笑んで聞き流してくれるだろうと思っていた沙織の反応は、しかし、思いがけず強い口調のものだった。
彼女は、瞬の側に歩み寄り、鍵盤の上ではなく、膝の上で小さな拳を作っていた瞬の両手を、そっと持ち上げ、その拳を開かせた。
「綺麗な手よ。鍵盤に触っても平気。ピアニストになるには指の長さが足りないけど、誰かのために弾くのなら、これで十分。あなたが触れたからって、鍵盤が赤く染まるわけではないわ」

「沙織さん……」

「あなたは認めたくないことでしょうが、あなたたちの闘いは必要なものでした。そのために傷付いた者たちも数多くいたけど、あなたがたの闘いのために救われた人たちの数は、その数を凌駕しています。あの闘いが、あなたから、無垢なものに触れる権利を奪ったなんてことは、決してないのよ」

「沙織さん、でも……」
救われた者より少ないのかもしれない犠牲の方こそが、瞬には、救われた者たちよりも重大な意味を持っていたのだ。
瞬は、沙織のように統べる側の人間ではない。
瞬は、大多数の人間の幸福よりも、個々の人間の悲しみの方に心を向けてしまう戦士だった。

そんな瞬の気持ちを見越しているのだろう。
沙織は、今度は穏やかに微笑した。

「そんなに硬く考えることはないわ。芸術は、神や聖人のためにあるようなものじゃないの。悩んだり苦しんだりする人間のためにあるものよ。それは、闘いより尊いものでもない。闘いは生きていくのに必要なものだけど、人はピアノがなくても生きていけるわ」 

「でも、闘いは人を傷付けるだけです。ピアノは人の心を癒してくれるし、励ましてもくれるし――」

「そう。必ずしも必要なものじゃないけど、人の心を優しくして、人生を豊かにしてくれるもの。あなたの笑顔のようなものよ」

そう言って、沙織は意味ありげな視線を氷河に向けた。
「必要としている人には何よりも大切なもの、でしょう?」

氷河が、首肯の代わりに、薄い笑みを浮かべる。
言葉のないそのやりとりに、瞬は気付いてはいないようだった。

「でも、今から習っても……。ピアノって、普通は小さな子供の頃に習い始めるものなんでしょう?」

瞬の心許なげな声音に、沙織は大仰に肩をすくめてみせた。
「あなたはピアニストとしてソロデビューでもするつもり?」

「いえ、まさか」
「誰のために弾きたいの」
「え?」

沙織に尋ねられて、瞬はほんの少しだけ首をかしげた。
自分のピアノの“演奏会”の観客を思い浮かべて。

「あ、それは……氷河や……星矢や紫龍や一輝兄さんを……綺麗な曲で、少しでも気持ちを和ませてあげられたら、どんなにいいかって思いますけど」

想像していた通りの瞬の答えに出会って、沙織は目を細めた。
そして、きっぱりと告げた。


「私は、誰かのためじゃなく、自分のために弾くの。ピアノだけは、自分のためだけに弾くことにしているの」






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