「沙織さん……」 瞬には、沙織のその言葉はひどく意外だった。 瞬は、女神は万人のために存在する――ものだと思っていたから。 当然のごとくに、その言葉も行動のすべても、多くの人間のためにあるのだと、瞬は思っていたのだ。 瞬の驚きを、沙織は少し孤独がかった笑みで受け止めた。 「時々思うの。私があなたたちを大切に思うのも、結局は、あなたたちが守る大勢の人のためなのかもしれない――って」 そう思うことも、女神ならば、人を統べる立場の人間ならば許されるし、また必然のことでもある。 沙織は、特定の誰かのために生きているのではなく、地上に存在する大多数の――おそらくは地上の平和と安寧が実現すれば、全ての――人のために生きているのだ。 『ピアノくらい、自分のためだけに弾いてもいいでしょう?』 瞬に向けられる沙織の視線は、そう告げていた。 それは、“女神”ではなく、一人の少女の眼差しだった。 「そして、あなたは自分のためには弾けないんでしょ? 考えようによっては、女神より悲愴ね」 考えようによってはね――と、沙織は口の中で繰り返した。 「あなたは、あなたの側にいる誰かのために弾きたい人。だから、そんなに上手じゃなくても、あなたのピアノなら聞きたいと言ってくれる誰かのために弾けばいいわ。誰かのために弾けるって、それが『きらきら星』でも『メリーさんの羊』でも素敵なことだと思うわよ」 ――幸せなことだと思うわよ。 言葉にはしない沙織の声が、瞬には聞こえた。 私には、それができないから――。 「あ、僕は……」 瞬は、沙織を見ていられなくなって、救いを求めるように、氷河の上に視線を移した。 氷河は――『きらきら星』ですら、ただ一人の人のためにしか弾けない男は――無表情だった。 その場を和ますための言葉を形作るつもりすらないかのように。 |