瞬に椅子を譲られた星矢が、大きく咳払いをする。
それから、彼は、華麗なる演奏を始めた。
右手の人差し指1本で。

ドーレミードミドミ レミファファミレファー♪ と。

「星矢、それ……」
「俺、好きなんだ、この歌」

それは、誰もが幼い頃に親しんだ名曲、ではあった。

「魔鈴さんに教えてもらったんだぜ。アテネって教会が多くてさぁ、そこのオルガンで」

そう言って、星矢はそれは見事な――滅茶苦茶な――弾き語りを始めたのである。

「  ドーはドーナツのドー
  レーはレモンのレー
  ミーはみかんのミー
  ファはファンタのファー
  ソーはそぼろのソー
  ラーはらっきょのラー
  シーはシシカバブー
  さあ、食らいましょー♪ 」



「…………」
「…………」
「…………」


『ギリシャの教会と言ったら、それはキリスト教の教会なのではないか』だの、『アテナの聖闘士がそれでいいのか』だのと、マトモなことを突っ込む気にもなれない。

頭を抱えたい気分で、氷河は、星矢の演奏を中断させた。
「わかった。貴様が腹を減らしていることはよーくわかったから、そこまでにしろ」


「なんだよ、そのあきれたような言い草は! 有名な作曲家の歌だって、魔鈴さん、言ってたぜー」
期待していた賞賛をもらえなかったのが不満だったのか、星矢が派手に唇を尖らせる。

星矢に対する魔鈴の情操教育がどういうものだったのかに疑問は残るが、確かにそれは、“有名な作曲家”の作った“名曲”ではあった。

ミュージカル『サウンド・オブ・ミュージック』のために、リチャード・ロジャースが作曲し、今も世界中で愛唱されている軽快な曲。
ナチスの支配を逃れて、音楽好きの一家がアルプスを越え、スイスへと逃れていく物語の中で歌われる劇中歌。



初めて『サウンド・オブ・ミュージック』を観た時、瞬は戦いを逃れて亡命できるその一家を羨ましいと思った。
それができるのなら自分も、と願った。

だが、観終わって数分もしないうちに、瞬は気付いたのである。
彼等は、戦いから逃げたのではない。
彼等は、歌で戦っていたのだと。


幸せの形が人それぞれであるように、幸せを手に入れるための戦いもまた、様々な形を成しているものなのかもしれなかった。






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