「氷河っ !! 」

崩れてきた壁や屋根を避ける気力と意思すら、氷河にはなかった。
にも関わらず、彼がほとんど怪我を負わずに済んだのは、実験施設を破壊した当の本人の小宇宙が氷河を庇い守ってくれたからだった。

瞬の両腕に抱きしめられて、氷河はふっと、どこかに失せていた意識が戻ってきたような気がしたのである。

「乱暴なことして、ごめんね、氷河。大丈夫?」
「あ……ああ、瞬、無事か」
「僕は最初から平気なの」

氷河の無事を確かめると、瞬は怒りに眉を吊り上げて、沙織に向き直った。
「沙織さん! どうして、こんなことを……ううん、どうして氷河を最後の一人にしたんですっ !!  どう考えたって、僕の方が“一人”に強いのにっ!」

(一人に強い……?)

氷河以上に、氷河とは全く別の意味で、沙織は瞬を泣かせ慣れている。
沙織は瞬に涙を見せられても、全く動じなかった。
「説明した通りよ。この実験の主目的は、人間の孤独への耐性を調べることで、最後に残す二人はあなた方しか考えられなかったし、最後の一人は――孤独に弱い方が面白いデータが採れるでしょ? ドラマチックよね〜v 地球上に残ったただ二人だけの恋人同士! その愛する人を失った人間の慟哭! 全部ビデオに撮ってあるから、後で映画チックに編集してプレゼントしてあげる。いいもの見させてもらったわ〜」

「…………」
涙に濡れた瞳で、瞬は二度瞬きをした。
沙織は、本当は、ただの退屈しのぎに、こんなとんでもない実験を始めたのではなかったのかと、瞬は疑ったのである。

それは――非常に考えにくいことではあったが。
沙織が、聖闘士たちの母たる女神だからというのではない。
そんなことをしても、グラード財団は何の利益も得られないという、実に即物的な理由から、である。
利益どころか、いつの間にか実験施設内から連れ出されていた瞬は、核爆弾をもってしても破壊できないはずの実験施設のドーム屋根を、氷河を一秒でも早く救い出したいの一心から、拳一つでほぼ全壊させてしまったのだ。
研究所員の操るモニターに映る、孤独に混乱した氷河の姿を見た途端に。


「ふん。情けない。ほんの数時間一人になったくらいで」
「まあ、状況が特殊だし、氷河の奴、結構可愛かったじゃん」
「うむ、実に。大口を叩くわりに、本当に瞬がいないと駄目なんだな、氷河の奴」

「兄さん! 星矢、紫龍っ !! 」
瞬が、兄と仲間とを頭から怒鳴りつける。
怒鳴りつけられた三人は、一様に肩をすくめた。

怒気いっぱいの瞬を、氷河は引きとどめた。
「いい。おかげで、おまえが俺にとってどれだけ掛けがえのないものなのかわかった」

「…………」
それは今更伝えなければならないようなことではない。
それが、知りたいことを聞き出すための言葉なのだということを、瞬はすぐに悟り、そして、少しばかり辛そうに瞼を伏せた。

「僕、周囲にたくさん人がいないとダメなの。時々、一人でも生きていけそうな気がして、それが恐いから」
「……だから、誰かと二人きりでいる時がいちばん不安なのか」

二人きりで在ることは、『もし、この人がいなくなったら』という不安を、瞬の中に産むのだろう。

「……ごめんなさい」

「…………」

これは、強さからくる弱さなのだろうか。
一人で生きていけるということは、強さ、なのだろうか。
少なくとも瞬は、そうは思っていないようだった。

そんな瞬のために、氷河は目許に笑みを刻んだ。
「馬鹿な心配する奴だな、おまえは。大丈夫だ。おまえは俺なしには生きていけないから」
「氷河」

よく言う。
――と、周囲の者は呆れ果てていた。

「そう…なのかな……」
瞬だけが、まるで福音を与えられた迷い人のように、瞳に小さな希望の灯をともす。

「人間の歴史は、人が一人で生きていけないことを悟った時に始まったんだろう?」

一人でも生きていけそうな気がすることに対する罪悪感。 

「おまえに会う以前は、俺も一人が平気だった。おまえは、俺の歴史の起点なんだぞ」

氷河は、それを罪悪と感じたことすらなかったが。

「……大丈夫。おまえは、自分の歴史が既に始まっていたことに気付いていなかっただけだ」

「氷河」

「そうだと、言ってくれ」

瞬が頷くまでに少しの間があったのは、その答えに迷いがあったからではなく、

「うん。もちろん、そうだよ。そうだったんだね」

そんな自然なことに気付かずにいた自分自身に、瞬が驚いていたからだった。






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