掛けていたソファから素早く身体を起こし、氷河は、ラウンジを出ていこうとしていた瞬の左の腕を掴み上げた。
その腕を後ろ手に捩じるようにして、瞬の肩をドアの横の壁に押しつける。

「誤解なら、おまえはそれでいいのか」
「え……?」

「誤解なら、それはおまえにはどうでもいいことなのかと訊いた」
「氷河……?」

戸惑いながら、瞬が、氷河を見あげる。

氷河は、まるで自分自身をあざ笑うように皮肉な目をして、瞬を見おろしていた。
その目には、もしかしたら瞬への怒りも混じっていたかもしれない。

「まあ、俺がおまえを好きなのが誤解だとしてだ。誤解したおまえは、変わってしまった俺を元に戻すために、我が身を俺に捧げても構わないと考えたわけだ。別に俺を好きだからではなく、責任感か罪悪感にかられて」

「そんなこと……」
瞬は、まさか氷河にそんな言葉を投げつけられることがあろうとは、思ってもいなかった。
しかし、すぐに、たった今自分が、そう言われてしまっても仕方のないことをしたのだということに気付く。

「罪悪感だろう。それとも自分が誰かの犠牲になることに酔っているのか」

「そんなことないよ!」

「罪悪感だ。それも優越感の混じった、質の悪いやつだ。――自分が他人を変えてしまったことに優越感を感じて、おまえは俺のところに来たんだ。俺を好きなわけでもないのに」

そうでなかったら、誤解を誤解だと知った途端に、恋と欲望に囚われた哀れな男の前から即座に立ち去ろうとはしないだろうと、氷河は瞬を責めているのだ。

しかし、それは――それこそが“誤解”だった。
「あ……あの……」

瞬の眼差しには、まだ戸惑いが混じっていた。
だが、瞬を戸惑わせているものは、数刻前とは違う感情だった。

「誤解じゃないの?」

「…………」

氷河は、それには答えなかった。
氷河が瞬に向ける思いが誤解だったとしても、誤解でなかったとしても、誤解と思った瞬間に、瞬が彼の前から立ち去ろうとしたことに変わりはないのだ。


「僕は……僕はよくわからない。紫龍に氷河のこと聞かされて、冷静でいられなくなって、そのまま何も考えずにここに走ってきたから」

だが、瞬には瞬の、迷いと、迷いのなさがあったである。

「でも、僕は、氷河以外の人には、いくら冷静さを欠いていたからって、あんなこと言わないよ」

「…………」

「僕は知らない。僕の氷河に対する気持ちが何なのか。でも、僕は、氷河が今みたいでいるのは嫌なの。 僕は氷河の気持ちを安らげるためになら何だってするよ」


「何でも?」
「うん」

瞬の迷いのない返事に、氷河は苦笑した。
本当に苦い笑いだった。

「やめておけ。殺されるぞ、おまえ、俺に」

これまで敵にぶつけてきたものを全て瞬に向けたら、この細い肢体がどんな有り様になるか、氷河には容易に想像ができた。
そして、その想像に、氷河は酔いそうになった。

「僕は、氷河にだったら、血まみれにされて、殺されたって平気だよ」

氷河は、そんな瞬を見てみたかったのだ。

「言うのは簡単だ」
「…………」
信じてもらえないのが悲しいのか、瞬は瞼を伏せた―― 一瞬間だけ。
すぐに、意を決したように顔をあげ、氷河に告げる。
「確かめてみたら」

「…………」

氷河は、瞬のその言葉に驚き、そして戦慄するような歓喜に支配された。
瞬は、本当に、この殺戮を好む獣のような男を受け入れても構わないと言っているのだろうか、と。

「知らんぞ、ほんとに殺されても」
「うん」

瞬はすぐに頷いた。
今はむしろ、氷河の方が迷っていた。

瞬の言葉を信じたくて。
だが、瞬の心が見極めきれなくて。


氷河はその迷いを振り払って、突然瞬を抱き上げた。

彼は、瞬の心と言葉が真実なのかを、確かめてみずにはいられなかった。






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