「しかし、容易すぎる……」

同じキリスト教国でありながら、十数年前にワラキア公国に併合されたモルダヴィア公国。
今は地上から、モルダヴィア公国という国は消え去っている。
ワラキア公国領モルダヴィア。
トルコ軍がやってくるまでは、そう呼ばれていた土地に入ると、ヒョウガは今更ながらに不審の念を募らせて呟いた。

モルダヴィアには、トルコ兵の姿はなかった。
モルダヴィアは、オスマン・トルコに無抵抗で降伏したのである。
自国の王を持てない宿命のこの国は、宗教の自由さえ認めてもらえるのであれば、自分たちを支配するものがワラキア公国だろうが、オスマン・トルコだろうが、大差はなかったのだ

トルコに服従を誓ったが故に、トルコ郡の略奪を免れたモルダヴィアの小さな村で、ヒョウガとシュンは、久しぶりに宿を取った。

そうしても安全と思えるほど、モルダヴィアは静かだった。

「何もかもが上手く行き過ぎました。もしかすると、この先に――ハンガリーに向かう道に何か罠が仕掛けられているのかもしれません」

あまりに順調な逃避行は、ヒョウガに、ありえない罠を懸念させた。
そんなことがありえるはずがないのだ。
西欧と呼ばれる地域に進軍するためには、大トルコと言えども、相応の準備と覚悟が要る。
今回の遠征でトルコがそこまでを考えていたとは、ヒョウガには思えなかった。
考えていたにしても、ワラキアとの戦いで失った3万の兵力は、トルコにその計画を断念させるに足る損失だったろう。


「気にしないで。僕はいつもこうなの。僕には、僕を守ってくれる悪魔がついているの」

ヒョウガの杞憂を打ち消すために、シュンが形ばかりの笑みを作る。
この数日間、トルコ軍に荒らされた街の廃屋や馬の背でばかり睡眠を取っていたシュンは、久し振りに使える寝台を見やり、身体の緊張を解いた。

「悪魔? 天使ではなく?」
「ヒョウガ、神や天使はね、愛する者には試練を与えるものなの。甘やかして甘やかして堕落させるものが悪魔」

「では、公子は――シュンは――神にも悪魔にも愛されていることになります」
「え?」

いつまでも告げずにいられるものではない。
ヒョウガは宿の主人に確かめたばかりの、自分たちより先にモルダヴィアに到着していた悪い知らせを、一瞬ためらってから、シュンに告げた。

「父君と兄君がお亡くなりになりました。3日前に、トゥルゴヴィシュテにて処刑されたそうです」

ヒョウガは、そうなることを見越して差し延べていた腕で、気を失ったシュンの身体を受けとめた。


この逃避行の5日間、一度も父と兄のことには言及せず、シュンは、気丈に――無理に――前だけを見詰めていた。
人の命と幸福とを奪う戦、その戦に魅入られているような父と兄――を、シュンはいつも言葉に出して『嫌い』だと言い続けていた。

それが嘘だということは、ワラキア公宮の主も、大臣たちも、下働きの者たちですら知っていたのだが。






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