「公子、大丈夫ですか。おそらく、もうトルコの脅威はありませんが、明日から山越えに入ります。季節はもう冬に近いですし、山道は険しい。おそらく騎馬も叶わない道が続くことになりますが」 安宿の硬い寝台で意識を取り戻したシュンの前で、ヒョウガはもうワラキア公の死については触れなかった。 シュンが虚ろな眼差しで、窓の外にある黒く高い峰の連なりを見やる。 そこにあるのは、モルダヴィアとハンガリーを隔てているカルパチアの山と森。 西欧の人々は、その峰々を『魔の山』と呼んでいた。 山脈の西に立って見れば、カルパチアの山の向こうにあるのは、魔の庇護を受けているワラキア公国、そして、異教徒の国トルコ。 カルパチア山脈は、西欧にとって、魔と異教の侵入を阻む砦でもあった。 「平気です。生き延びることだけに夢中になれていい」 今のシュンには、悲しみを忘れていられるなら、逃避行の道は辛く険しいほどありがたく感じられるものだったのだろう。 ヒョウガの言葉に、シュンは小さく頷いた。 「……そうですか。では、私は隣室におりますので、ご用がありましたらお呼びください。今夜は、お一人の方がよろしいでしょう」 “嫌っていた”父と兄の死を嘆くのに、余人の目は無い方がいいだろう――という、それはヒョウガなりの気遣いだった。 そのまま席を外そうとしたヒョウガに、シュンは右の手を伸ばしかけ、そして、伸ばしかけた手をぱたりと寝台の上に落とした。 「……抱きしめて、慰めてくれたりしないの。子供の時みたいに」 「…………」 ヒョウガは、シュンへの答えに窮した。 騎士の忠誠を誓った者が、主君に対してそんなことをしていいはずがない。 「僕はもうワラキアの公子様なんかじゃないよ。僕の国は無くなってしまった」 「公子は公子です 私はあなたをお守りするようにと――」 「父から命令を受けた」 「そうです」 「その父ももういない」 「命令は消えません」 「僕とヒョウガの間を隔てているものも無くならないの」 「…………」 シュンにとって、ヒョウガは唯ひとりの幼馴染みだった。 シュンが生まれて10日も過ぎぬ頃、ワラキア公が、戦場で拾ってきたと言って、まだ2歳にもなっていない様子の子供をひとり、ワラキア公宮に連れてきた。 「シュンの友達にいいくらいの歳だろう」 戦場で第二公子の誕生を聞いたワラキア公が、誕生の祝いにシュンの母親に与えた、北の国の血を引く金色の髪の無口な子供。 それがヒョウガだった。 それは、次期ワラキア公として、母親の手から育児官に奪われた長子の身代わりだったのかもしれない。 シュンの母は、血の繋がっていないヒョウガとシュンを、実の兄弟よりも兄弟らしく分け隔てなく育てあげた。 『俺はシュンの騎士になる』 シュンの母が亡くなり、ヒョウガがそう言い出すまで、確かにふたりの間を隔てるものは何もなかった。 「私は公子の騎士です」 あの時と同じ言葉を再び口にするヒョウガに、シュンは唇を噛みしめた。 「じゃあ、一人にして」 兄とも慕った優しい幼馴染みではなく、臣下の義務にのみ従う騎士には、“嫌っていた”父と兄の死を嘆く様を見せるわけにはいかない。 シュンは、ヒョウガよりも硬い口調で、ヒョウガに退室を命じた。 |