「いい加減に私との契約に同意しろ。そうしたら、私はあの男を操って、おまえの意に従うようにしてやる」

シュンと何ものかのやりとりは、壁の薄い安宿で、シュンの身を案じ隣室で寝ずの番をしていたヒョウガの耳に、突然飛び込んできた。


「心までは無理でしょう。10年も僕の側にいて、僕みたいな子供ひとり自由にできない魔物さん」
「君の心は隙がない」

壁越しにとは言え、シュンと“それ”の、ここまではっきりとしたやりとりを聞くのは、ヒョウガはこれが初めてだった。

「本当につれない子だな。この5日間、君の身を守ってきたのはあの男ではなく、この私だぞ。私がどれほど君を愛しく思っているか、知っているのか。」
「その100倍、憎らしいと思ってるくせに」
「まあ、私は何につけても負けることが嫌いなのだ。君が私よりあの男を気にかけているのも不愉快だな」

「放っておいて」

その“もの”の声は、若い男の声に聞こえた。

「まあ、綺麗な男ではあるが、私ほどではないし、救いがたい朴念仁。あんなののどこがいいのか、理解に苦しむね」
「…………」

「彼の今ある境遇は君のせいじゃない。罪悪感など、とっとと捨ててしまいなさい」
「消えて!」

シュンの言う通り、それは神や天使ではなさそうだった。

「……肉親を亡くしたばかりだというのに、相変わらず、鉄壁の防御か。硬い心だ」

――――。


それきり、何ものかの声は聞こえなくなった。
ヒョウガの耳に届けられるものは、涙も嘆きの声もない瞬の悲しみだけになったのである。



キリストの作った神でもなく、教会の作った天使でもないもの。
だとしたら、それは、キリストの教えがやってくる前からこの土地にいた、いわゆる土着の魔のものなのだろう。
それは、生まれ故郷である魔の山に帰ってきて、力を増しているのかもしれない。

その夜、ヒョウガは、いつもシュンにまとわりついている魔のものの姿を見たような気がした。






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