しかし、ヒョウガの方はそうはいかない。 「離れろっ!」 洞窟の中に戻ってくるなり、シュンに寄り添っている悪辣な魔の姿を見てしまったヒョウガが冷静でいられるはずがない。 「公子、なぜ、そんな魔物と……!」 触れられている手を払いのけようともしていないシュンを咎めるように、ヒョウガは叫んでいた。 何も答えようとしないシュンの代わりに、アフロディーテが口を開く。 「シュンはねぇ、命令ととられるのが嫌で、君に抱きしめてくれと言えないんだそうだ。 シュンにはもう、身分も国も領土も無いのに」 「…………」 「忠義面する必要はないんだよ。いいことを教えてやろうか? 君の生国、モルダヴィア公国を滅ぼしたのはシュンの父だ。君の両親を殺したのもシュンの父だ。シュンは君の故国と親族の仇の一族の一人。まだ物心ついていない時にワラキアに連れてこられた君は、本当なら今頃はモルダヴィア公国の君主だったんだ」 「アフロディーテ!」 それまで亡霊のように虚ろな目をしてヒョウガを見詰めているようだったシュンが、ふいに自分の意思を取り戻して、アフロディーテの実体のない手を払いのける。 「随分だよねぇ。自分の滅ぼした国の公子を自分の息子の従者にするなんて」 「アフロディーテ!」 「シュンだって知ってる。君に憎まれるのが恐くてずっと言えずにいたんだ」 「そんなことない! 僕はいつか自分でヒョウガに告げようと……」 シュンの言葉を遮って、アフロディーテがヒョウガに尋ねてくる。 「さあどうする? 君はシュンに忠誠を誓う意味も必要もない。たった今、なくなった」 シュンの頬からは血の気が失せていた。 「復讐にはいい機会だよ。今、この山奥でシュンを殺してしまえば、ワラキア公国正当の血は絶える。ハンガリーの姉君は脇腹だしね。最高の復讐だ」 こんなふうに知らせてしまいたくはなかったのだ。 「それとも、いっそ、シュンを君の奴隷にしてしまうのはどうだい? 毎晩、シュンを君の好きにできる。シュンは君に対する負い目と罪悪感でいっぱいだから、どんな命令だって思いのままだ」 少なくとも、自分以外の誰かの口から、ヒョウガがそれを知ることがあってはならないと、シュンはずっと思ってきた。 こんなことになるのなら、ワラキアの公宮を出る時に――否、ヒョウガがシュンの騎士になると言い出した時に、その事実を告げておくべきだった――と、シュンは悔やんでいた。 ――いずれにしてももう遅かった、が。 勝ち誇ったように笑うアフロディーテが気に障ったのか、ヒョウガの返答は実にぶっきらぼうなものだった。 そして、それはシュンにとっては思いがけないものだった。 「――俺は復讐など考えたこともない」 驚いた様子も見せないヒョウガに、アフロディーテがつまらなそうな顔になる。 「おや、もしかして自分の身の上を知っていたのか?」 「ヒョウガ……」 青ざめた頬をして、ヒョウガの前に立つシュンに、ヒョウガは少しばかり辛そうに顔を歪め、だが、落ち着いた口調で告げたのである。 「おまえは忘れてしまったのか。俺とふたりで戦のない国を作ろうと誓ったことを」 シュンの騎士になる以前の口調で。 |