下人ひとり置いていない自分の邸に戻った氷河は、居室に落ち着くと、籠の蓋を開け、飛び出てきた小犬に、低い声で、
「人間に戻れ」
と命じた。

途端に、氷河の前に、人間の姿をした瞬がちょん☆ と姿を現す。
瞬は、素直な色の瞳に感謝の念を溢れんばかりにたたえていた。

「聞いた通りだ。帝は、おまえの主人の家に荘園を一つ与えるそうだ。おまえの主人の両親は、一生食うには困るまい」
「ありがとうございます。このご恩は一生忘れません」

「別に……俺もたんまり褒美をせしめたから、礼には及ばん」
「いいえ、いくらお礼を言っても足りません」


瞬に深々と頭を下げられて、氷河はかえって居心地が悪くなった。
その居心地の悪さを紛らすために、話題を変える。

「しかし、おまえ……匂いで危険を察知して避けていたのか? おまえくらい綺麗だったら、その気のない者でも妖しい気分になるだろうに、よく、お手つきにならなかったものだ……」
――と氷河が言い終わるより先に、瞬の右手が氷河の前に差し出される。

「…………」

最初、氷河は、瞬のその行動の意味が全く理解できなかった。
もしかして……と思いつつ、その言葉を口にしてみる。

「伏せ」

すると、瞬は、背を丸めるようにして、その場に伏せ、

「お坐り」

で、ぴょんと身体を起こした。

「こ……これは面白い」

命の恩人の戯れ言に泣きそうな顔になった瞬に、氷河が苦笑してみせる。
御所で初めて会った時、突然瞬が自分に手を差し出してきた訳を、氷河は今になってやっと理解したのだった。

「まあ、気にするな。俺も脂揚げが大好物だ」
「え?」
「おまえ、俺の父の噂を知らないのか? 狐の子だという」

瞬が首をかしげると、氷河は浅く頷いた。
犬の身で人の噂を耳にしても、何の得にもならない。

「そういう噂があるんだ。だが、あの噂はとんでもない間違いでな。晴明が狐の子なのではなく、俺が狐の子なんだ。おまえの元の主人の死を知らせてくれたのも、狐だ。俺の使役獣に飛脚狐というのがいるんだ」

「狐の子……? あなたが?」

「ん、まあ、父の奥方が――梨花という名の女だったんだが、それが、父の弟子と不倫をしでかしてな。結局、不肖の弟子もろとも成敗されたんだが、その後で、父は俺の母に出会ったんだ。今の俺と同じようにして。母は狐の化身だった」

「…………」

自分以外にも人に化身する動物がいたということが、瞬には大きな驚きだったらしい。
だが、その化身と人間の間にできた子供である氷河には、当然のことながら、瞬の存在は不思議ですらなかった。

「おまえ、行くところはないんだろう? ここで暮らさないか、半獣同士」
「僕、ただの犬です」

「ただの犬がこんなに可愛いのか」
「僕、ただの犬に戻ります。僕がご主人様の姿をしている必要もなくなったもの。本当にお世話になりました」

瞬が、命の恩人の家から妙に急いで出て行こうとする訳を、氷河は薄々気付いていた。
瞬は、匂いで危険を察知しているのだ。
おそらくは、それがどんな種類の危険なのかはわからないままで。

しかし、氷河には、瞬を自分の意に従える必殺の技があった。

待て

『待て』と命じられれば待ってしまう、それは悲しい犬の性である。 
部屋から出ていこうとしていた瞬は、恨めしそうに氷河を振り返った。

が、人の――もとい、犬の――弱みにつけこんだ、当の氷河には悪びれた様子もない。

「まあ、ここにきて菓子でも食え」

「…………」

瞬は、命の恩人に対して、不信感でいっぱいである。
戸口の脇に立って、瞬は、疑い深げに氷河を見おろしていた。

「どうした」
「『お預け』って言うんでしょ」
「そんなことは言わない。まあ、ここに来て……『お座り』」

性である。
氷河の命令に従わざるを得ない、それは飼い犬として暮らしてきた瞬の性だった。

瞬が命令に従って、氷河の許に戻り、その場に正座する。
すると、氷河は高坏から菓子を手に取り、瞬の前に差し出して、
「ちんちん」
と言った。

『お預け』はしないという言葉を、一応は守ったわけである。
両手を胸元に運びかけた瞬の目に、氷河は悪戯好きの悪童のように映っていた。

「うまいな。よし、食べていいぞ」

楽しそうに笑う氷河の手から干菓子を受け取って、瞬はじわりと涙ぐんだ。
「ひどい……。こんな意地悪するなんて……」

「ああ、泣くんじゃない。もう、こんなことはしない。そのうち、もっといいちんちんを教えてやるからな」

氷河の下品な企みが、無論、純真な瞬にわかるはずもない。
「え?」

不思議そうに首をかしげた瞬の前で、氷河はわざとらしい咳払いをした。






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