七日目の朝。

緑の絨毯を敷きつめたような奇跡の庭は、輝く朝日を受けて、乾燥しきったメソポタミアの大地に忽然と姿を現した。
あとは、最上段の区画に樹木や花を植え込む仕事が残っているだけである。


氷河がそこまで頑張れたのは、もちろん何よりも瞬のためだったが、もう一つ訳があった。
それは、つまり、ネブカドネザル王への同情心、である。

ネブカドネザル王は、彼が愛しているほどには王妃に愛し返されていない――ことが、日を追うにつれ氷河には分かってきたのだ。
なにしろ王自身が、力仕事をしている氷河をひやかしに来て愚痴っていくのであるから、それは確かな事実だったろう。


「…でも、王妃様、ほんとは王様のこと好きみたいだよ。素直になれなくて、意地張ってるだけみたい。ほら、なんたって政略結婚でしょ。王様も別に自分のこと好きになって結婚してくれたわけじゃないんだ…って、拗ねてるだけみたい。政略結婚の相手が当代随一の男性だったからって、引け目も感じてるみたいだし……」

「へー」

自分の側に引きとめておこうとする王妃の目を盗んで毎晩氷河の許にやってきて、こっそり氷河の仕事を手伝ってくれる瞬は、王妃の方に同情しているようだった。

「僕が氷河の側に行くの邪魔しようとするのも、妬いてるからみたいなんだ。なんか、かわいそうだよね。好きな人に素直になれないのって」
「簡単なことじゃないか。まして、王は王妃のためにこんな庭まで造ってやろうとしてて、王妃を憎からず思っているのは確かなんだし」

「庭を造ってるのは氷河でしょ。王様は計画を思いついただけで、土の一つまみも運んでない」
庭の最上段部分の平地に花の苗を植えながら、瞬は言った。

氷河が、女の贅沢な望みに嘆息する。
「そういうことを思いつくのは、王妃を気にかけてる証拠だろ。仮にも一国の王が土運びなんてできるわけないし、周りの連中がさせないに決まっている」

「でも、王妃様はそれを望んでいるんだ。思いつくだけなら、誰にでもできる。それを行動に移してくれない人の思いやりはうわべだけのものかもしれない…って。だから、僕が羨ましいんだって。『あの亭主の妻なら、おまえは幸福なんだろうな』って言ってた」

たとえ男女の区別はつかなくても、あの王妃は、実に物の分かった女だと、氷河は思った。
瞬ほどではないにしろ、それなりの価値もあり、素直なところもないではない。
本当はとても素直な人間なのだとも思う。
瞬には正直に心の内を打ち明けられるのに、好きな相手にだけ素直になれないなどというのは、ただ単にうぶなだけで、むしろ可愛いものではないか。


「…で?」
「で? …って?」
「おまえは何て答えたんだ」
「氷河は僕の“亭主”じゃありませんって言っといたよ、とりあえず」

「…………」

好きな相手に素直でないのは瞬も同じである。(瞬は自分を好きなのだと、氷河は勝手に決めつけていた)
瞬の答えに、氷河は少なからず、否、大いにがっかりして、植樹のために抱えていた楡の樹を取り落としそうになった。

続いてすぐに、氷河を浮上させる瞬の言葉。
「王妃様がそんなはずないって言い張るもんだから、恋人なんですって言っておいた」

氷河は抱えていた樹を取り落とした。
二十メートルはあろうかという楡の樹が、根っこ付きのまま、ごろごろと音をたてて段状の庭の下まで転がり落ちていく。

「だ…大丈夫!? 怪我はない? 氷河、疲れてるんだよ! 六日間、ほとんど眠ってないんだから!」
手にしていた花の苗を放りだして、瞬が氷河の側に駆けよってくる。

すかさず、その手を掴んで、氷河は瞬に尋ねた。
「――それも、とりあえずその場しのぎに言ったのか?」

氷河に怪我のないのを確認してから、瞬が首を横に振る。
氷河の顔を見上げ、瞬は小さな声で告げた。
「――王妃様見てて思ったんだ。ほんのちょっと素直になれば、自分も周りの人も幸せになれるのに、どうしてそうしないんだろう…って。そしたらなんだか、素直でない自分がみっともなく思えてきて……。僕、嬉しかったんだ。氷河が、この庭、自分だけで造ってみせるって言ってくれた時」

「瞬……」

なんという感動的な言葉だろう。
ついに長年の片思いが報われる時がきたのだと思うと、氷河の心臓は突然ばくばく騒ぎだした。

「…おまえ、なんか拗ねてたぞ。こっち来た時」
「あれは――あれは、氷河が悪いの。前の日に、僕が氷河の部屋にバラの花飾ってあげて、『綺麗でしょ』ってきいた時、『もっと綺麗な花を知ってる』なんて可愛くないこと言うから」
「――」

言われて氷河は、瞬とのそのやり取りを思いだし、微かに顔を歪めた。
あの後、瞬は、氷河を睨みつけると何も言わずに氷河の部屋を出ていってしまったのだった。

「あのな、瞬。そりゃ誤解だぞ。あの時、俺の予定では、俺がそう言えば、おまえが、バラより綺麗なのは何なのかって聞き返してくるはずだったんだ。そしたら俺が『瞬』と答えてだな――それで、つまり……」

氷河の立てた勝手な予定の話を聞いて、瞬は目を剥いた。
「なに、それ。馬鹿みたい」

身も蓋もない瞬の言葉に、氷河ががっくりと肩を落とす。
自分が馬鹿だったということは、氷河にも今なら分かっていた。
事が予定通りにいかなかったことばかり悔しがり、それで瞬を怒らせてしまったことにも気付かずにいたのだから。

「そんなこと言ってもらったって、僕はちっとも嬉しくなんかないの。王妃様だって、王様の言葉を信じられずにいるでしょ。欲しいのは言葉なんかじゃなく行動だよ」

上目遣いに、瞬が氷河を見上げる。

急接近してきた瞬の顔に、氷河はごくりと息を飲んだ。
「――行動に出たいのはやまやまなんだが、手が土だらけで、今行動に出たら、おまえを汚してしまう」

氷河の言葉を聞いて、瞬の大きな瞳が戸惑ったようにきょろりと動く。
「そういう行動のこと言ったんじゃないんだけど……でも、いいよ。少し服に土がつくくらい。僕の手もあんまり綺麗じゃないし」

それはつまり、服を着けたままで抱きしめキスをするくらいまでならいいというお許しで、それ以上のことは禁ずるというニュアンスを含んでいたのだが、それでも氷河は天にも昇る心地で、瞬の腰に手をまわした。
禁断の木の実を食べることをエホバの神に許されたアダムのごとく、氷河の心は望外の感激に打ち震えていた。

引き寄せられた瞬の身体が、何の抵抗もなく氷河の腕の中におさまり、氷河の顔を見上げる瞬の瞳がゆっくりと閉じられる。

誘うように薄く開かれた瞬の唇に、氷河の唇が今まさに触れようとした時――。






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