あの闘いで散ったはずのバラは、いつの間にか蘇っていた。
双魚宮と教皇の間を繋ぐ石段にまで、その香りが夜の風に乗って届けられている。

闘いが終わっても、バラの生はずっと続いていたものらしい。

宴会の騒ぎも届かないそこには、星の瞬きの音以外の音もなく――静かだった。


「こういうこと……どうしてするんだろうね」
「? 愛しているからだが」

「あ、このことじゃなくって、文化祭とか」

石の階段に座っている氷河の横に腰を下ろして、瞬は小さく吐息した。
「イベントのずっと前から準備に東奔西走して、うまくいくのか心配して、でも、当日はあっと言う間に終わっちゃって、終わっちゃったら虚脱感だけが残って──」

「文化祭もこれも同じだな」

「あっという間に終わったことなんかないくせに」
「それを言ってほしかった」
にっと笑うと、氷河は瞬を抱き寄せた。
膝の上に倒れ込む格好で、瞬が氷河の腕の中にすっぽりと収まる。

「こういうこと……人が集まって、話し合ったり、騒いだりするのって──確かに楽しいよね。準備だって、色々心配しながら、結局楽しんでた。こうしてイベントが始まって、ゴールドさんたちが喜んでくれてるの見たら、それも嬉しい。なのに──」

だが、それも、間もなく終わるのである。

「……楽しいのならいいじゃないか。楽しめる時に楽しまない方がバカだ」
「ん……」
そう言う氷河の指先は、“今”をひじょーに楽しみまくっていた。
とりあえず、瞬が身に着けている邪魔なものを取り去るために。


「生きてることもこんなことなのかな。楽しいお祭りも死んだらおしまい」
「突然、何を言い出したんだ」

尋ね返しながら、だが、氷河はわかっていた。

祭りの終わりが近付いていることが、瞬は寂しいのだ。
祭りの準備はそれなりに大変ではあったが、瞬はそこに心地良い緊張感を感じていたのだろう。
“このこと”が不要なほど、瞬は“楽しんで”いたのだ。

そして、予定通りに祭りが始まり、祭りが動き出した途端に、瞬は既に、予定通りに訪れる祭りの終わりの時の寂寥を思い描いている。
瞬はつくづくA型気質なのだと、氷河は苦笑した。

「まあ、生きてることを楽しんだ方が利口だという意見には全面的に賛成だが。いつかは終わるんだしな」


祭りは非日常。
人の時間ではない神の時間の出来事。
世界の秩序が誕生する以前の混乱状態──カオス──を再現する行為である。
そして、祭りの終わりとは、秩序──コスモス──の成立と世界の誕生を意味する。

神の時間の中に、なるべく長くいたいという瞬の気持ちは、氷河にもわからないではなかった。
氷河の神の時間は、瞬の心と身体の中にあったが。

「終わった後で空しいのか、瞬、おまえ」
「どっちのこと聞いてるの」
「おまえのことだ」

「氷河とのことなら、そんなことないよ」

満足そうな氷河を見てると嬉しくなるから──と、瞬は小さな声で続けた。
そして、両腕を氷河の首に絡め――だが、瞬は、溜め息をついた。

「氷河との“祭り”は毎日でも楽しめるけど、このお祭りは――」

こんな祭りに終わりが来るのがそんなに寂しいのかと、氷河には、瞬の気持ちを理解しかねるところがあった。
氷河の目から見ると、瞬自身はこの祭りで何も楽しんでいなかった。
ただ準備に東奔西走しただけで。

だが、そういうことが楽しい人間もいるものなのかもしれない。
そして、それは、ひどく瞬らしい祭りの楽しみ方だと言えなくもない。


瞬の髪の香りを楽しむ振りをして、慰撫のために、氷河はその髪に唇を埋めていった。

「……おまえは、母親に抱かれたことがあるか」
「急になに言い出したの? あんまり記憶にないけど……。でも、僕には兄さんがいたから……」
「ああ、それがいけなかったんだな」
「え?」

「人間は、生まれたばかりの赤ん坊の時、何で自分の存在の価値を知ると思う」
「赤ちゃんは、そんなこと考えたりしないでしょ」

そう言いながら、瞬は赤ん坊のような小さな声をあげた。
氷河の手が瞬にいたずらをしたのだ。

「母親の肌だ。柔らかく温かい母親の肌に触れて、自分を包むそれを快いと思い、そうして確信するんだ。この世は良いところで、信頼するに足るものだ、生まれてきてよかった、生きていくのは良いことだ──とな」
「あ……そうなの?」
「母親の肌の代わりに、あの一輝の無骨な手で触られられていたんじゃ、本来赤ん坊が自分の中に築くはずの、世界への基本的信頼が欠如しても仕方あるまい。だから、祭りの後の再生を素直に信じられないんだ、おまえは」

氷河は、本当にそう思っているわけではなかった。
生まれたばかりの頃に世界への基本的信頼を養うことができず、自分と世界を信頼できないまま大人になった人間は、劣等感が強く、絶えず他者が自分に害を与えるのではないかとびくびくし、傷付きやすく、悲観的で、何事も悪く受け取るようになる――というのが定説である。

が、瞬はそんなふうではなかった。
一輝の愛情のおかげなのだとは思う。
瞬の母親がいつ死んだのか、氷河は知らなかった。
だが、自身もまだ幼かった一輝が、どれだけ瞬を慈しんできたのかは容易に想像できる。

だから、瞬は、他人の幸福を“喜べる”人間に育ったのだろう。
氷河としては、それが癪でならなかったのだが。


氷河の妬心に気付かずに、瞬は、少しばかり氷河の言葉に気を悪くしたようだった。
「そんな言い方ってある? だいいち、それなら、どうして僕は……」
瞬は言いかけて、自嘲気味に小さく微笑った。

「氷河の肌だって、これは、男の人の肌でしょ。なのに、どうして僕は、こんなに氷河の肌に触れるのが好きで……触れてると気持ちいいの……」
氷河の首筋に頬と唇を埋めて、瞬が、それこそ子供のように氷河の体温を味わい始める。

氷河は、瞬のその仕草と言葉とに苦笑した。
自分の肌が男のそれでないことは、瞬も自覚しているらしい。

「俺は、肌だけでおまえを楽しませてるわけじゃないからな」

氷河は瞬の脚を掴み、引き寄せると、自分の上に跨らせた。
瞬の下半身はとっくに、氷河の器用な手によって夜気だけに包まれている。
夜の星の光を恐れて、瞬は白いシャツだけは氷河の手に渡さずにいたが。

氷河の少しばかり乱暴なやり方に、瞬は小さな叫び声をあげた。
拒絶のそれでは、無論、ない。


「氷河にはマーマがいたから、氷河の中には、世界への基本的信頼とかっていうのが確固として存在するの?」
「……いいや。俺の母親は肺病の気があって、俺に直接触れることは少なかったからな」
「…………」
「だから、今、こうして、おまえの肌に触れることで、その分を埋め合わせようとしてるんじゃないか」

片脚を抱き抱えて身体を開かせ、開かせた身体を抱きしめると同時に、氷河は、突き上げた。

「ああ……っ!」
月の光以外に灯りらしいもののない場所では瞬にばれることもないだろうと、氷河は、自分の上で喘ぐ瞬を見て、薄く笑った。

「一輝も、まさか、おまえが男の膝に跨るような子に育つとは考えたこともなかっただろう」
「氷河っ!」

「怒ると……おまえの中はますます熱くなる……」

氷河が瞬の耳元で、これは誤魔化しようのない微苦笑を交えて、囁く。
氷河の祭りはここからが長かった。






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