栗きんとんにむしゃぶりついているカミュの恥知らずな有り様を見ていられなくなった氷河は、脱力しきってダイニングを出ると、ぐったりと疲れきった様子で、ラウンジのソファに身を沈めた。

「初詣での人出だけでもうんざりしてたのに、なんで、新年早々、こんなに疲れなきゃならないんだ……!」

瞬が、氷河の横に静かに腰をおろす。
それから、瞬は、疲労困憊している氷河を見詰めて、微かに笑った。
「自然科学的に意味がなくて、昨日と今日とで何も変わらない、ごくごく普通の平凡な日を祝おうとする人たちの気持ちがわかった?」

「……うるさい仲間たちが騒がない、食い意地の張った師もやってこない、ありふれた日常の価値はよくわかった。祝いたくなるのも当然だな」

うんざりした顔の氷河に、瞬がくすくすと含み笑いを洩らす。

「サッチモが……」
「ん?」

「平和で、平凡で、穏やかな世界を讃える歌を歌ってるよ。薔薇の花が咲いてて、空が青くて、世界はなんて素晴らしいんだろう……って」


木々は緑に萌え、紅い薔薇が咲いている
空はどこまでも青く、白い雲が浮かぶ

世界はなんて素晴らしいんだろう



「“この素晴らしき世界”か。確か、あれは、ベトナム戦争の歌だろう。ベトナム戦争の映画やドキュメンタリーには定番の曲だ」


空の鮮やかな虹が、行きかう人々の頬を染めている
仲間たちが挨拶を交わしながら、手を握り合っている
彼等は、互いに、『君を愛しているよ』と伝え合っているんだ



「うん。戦争の悲惨な映像の後で、必ず流されるの。戦争って──闘いって、何てことのない、あたりまえで平凡な世界を、あたりまえのことじゃなくしちゃうんだよね。特別なことなんて何もない平和な日常がかけがえのないもので……何よりも大切で――」


『君を愛しているよ』と伝え合っているんだ


「素敵なことでしょ。みんなが愛し合ってて、未来を信じてられて、毎日が平和で、何もかもが穏やかで──」
「栗きんとんを食ったり、ぜんざいの餅の焼き方に注文をつけたり、か」

こんな馬鹿な年始回りができるカミュも、師のあきれた言動に怒り狂っていられる氷河も、実は、そうすることのできる今日の日を喜んでいるのだ。
最初は驚くことしかできなかったが、瞬には段々、このおかしな子弟の間にある奇妙な情愛というものがわかりかけてきていた。

「氷河は、そんなカミュを眺めて、呆れて、溜め息をついて──そして、この世界はなんて素晴らしいんだろうって安心するの」

氷河はそれでも、うんざりした顔をうんざりさせたままだったが。

「カミュ先生、ほんとは、年始回りにかこつけて、氷河が元気に暮らしてるかどうかを確かめに来てくれたんだと思うよ。わかってるんでしょ?」

瞬の兄がそうだった。
『正月だから』は、ただの建前にすぎない。


「ふん」
氷河が、瞬の言葉を鼻で笑う。
「栗きんとんのついでにな」

どうあっても、素直になる気がないらしい氷河に、瞬は小さく苦笑した。
そして、すぐに真顔になる。
「あの歌を聞くと、泣きたくなるんだよね、僕」


瞬も、氷河も、カミュも、一輝も、そして、星矢たちも、闘いの悲惨と平和の価値を知りすぎるほどに知っている。
だからこそ、栗きんとんで憤っていられる今は、何よりも大切な時間なのだ。

「平和にのんびり過ごせる正月はかけがえのないもので、祝う価値があるというわけだ」
「うん」

氷河が、やっと、憮然とした表情を解く。
瞬の微笑につられたように、氷河は微かな笑みを口許に刻んだ。

「そうだな。じゃあ、まず、今年もよろしく頼む」
「うん、今年もよろしくね」

お決まりの、ありふれた、新年の挨拶――。

そんな挨拶を交わすことのできる現実が、どれほど喜ばしいことなのか――少なくとも、今、城戸邸に集っている者たちは皆、そのことを十二分に知っているのだ。






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