今から41年前の1848年、18歳の若さで、オーストリア帝国の帝位とハンガリーとベーメンの王位に就いたフランツ・ヨーゼフ帝は、今年59歳になる。 その間、彼が父とも頼んでいた宰相シュヴァルツェンベルク侯爵、メキシコ皇帝となった二歳年下の弟フェルディナント・マクシミリアン大公、母ゾフィー大公妃、愚帝の烙印を押され退位を余儀なくされた叔父フェルディナント1世、そして、ついに皇帝になることのなかった父フランツ・カール大公──と、幾人もの一族の死を耐え、彼は彼の帝国を守ってきた。 政治外交面では、提唱した新絶対主義の断念、オルミュッツの協約やクリミア戦争の結果も思わしくなく、イタリア統一戦争も普墺戦争も完敗、ハンガリーの独立要求も抑えきれず、いわば、失政に失政を重ねてきた皇帝である。 格式ばった宮廷を嫌う妻は、皇帝の側を離れて流浪の旅を続け、急進的な皇太子とは事あるごとに対立しており、家庭的にも恵まれていない。 しかし、その間、皇帝は帝国の近代化に努め、ウィーンの街を欧州第一の美しい都に造り変えてきた。 病院を作り、美術館を作り、学校を作り──彼の国と国民のために、彼は淡々と皇帝のすべきことを着実に──愚鈍なほど着実に――やり遂げてきたのである。 無数の不幸、数々の失政にも関わらず、己れを空しくして国民のために尽くす皇帝を、国民たちは愛していた。 彼の敵でさえ、巨大な帝国を支えているのが皇帝フランツ・ヨーゼフだということを認めていた。 民族と宗教と言語のるつぼであり、それ故に複雑な利害が入り乱れるオーストリア帝国を、ただ一人で支え続けている孤独な帝王。 皇帝は帝国そのものであり、帝国は皇帝そのもの──誰もが、そう感じていた。 だが王の身体は生身のそれである。 晴れがましい式典に笑顔を見せてはいるが、それが無理に作ったものだということは、皇帝の側にいる瞬にははっきりと見てとれていた。 どんな事態に相対しても、完璧に自分の感情を殺し、決してうろたえた様子を見せまいとする皇帝の強靭な精神力は、むしろ皇帝の身体を痛めつける方向に作用しているようだった。 だが、そんな皇帝の姿を知る者はほとんどいない。 もしかすると、今、この孤独な帝王に最も近しい場所にいるのは、遠い異国の血の混じった瞬なのかもしれなかった。 |