瞬の父は、1873年に開催されたオーストリア万博に、支倉具視を団長として渡墺した日本の明治政府の代表団の一人だったという。 支倉具視の副官としてオーストリアにやってきた瞬の父は、ウィーン娘と恋に落ち、彼女に子のできたことも知らぬまま、祖国に帰っていった。 その瞬が、皇帝の側に仕えるようになったのは、父が残していった一枚の白い皿のせいだった。 工芸分野での産業の復興を図ろうとしていた皇帝が、万博に出品された日本の焼き物の美しさに目をとめたのである。 万博開始後、すぐにドイツで株式大暴落が起き、いわゆるブラック・フライデーの余波がオーストリアにも及んだため、皇帝が万博で心惹かれた純白の焼き物を思い出したのは、それから優に十数年後のことだったが。 日本の士族であったという瞬の父は、一枚の純白の焼き物の他に、極東の言葉と文字と焼き物の指南書を、瞬の母の許に残しておいてくれた。 皇帝からの招きがあった時、瞬は、女手ひとつで父無し子を育ててくれた母を亡くしたばかりだった。 皇帝は瞬の境遇に同情して、瞬を自分の侍従の一人に取り立ててくれたのである。 皇帝が、宮廷の規則を曲げてまで、異国の血を引く瞬を宮殿内に招いてくれたのは、もともと彼が日本という国に興味を持っていたせいでもあったようだった。 フランス革命などとは全く違う方法で、緩やかな政権交替をしてのけた日本という国に、彼は支配者として興味を抱いていたらしい。 数百年の間、ハプスブルク帝国という一つの器に収められてきた多くの民族の間の亀裂が大きくなり始めていた。 長い平穏を貪ってきた大帝国にも変革が必要な時期が来ているのだということを、今のままでは帝国が崩壊するだろうことも、皇帝は認識していた。 しかし、皇帝は、ルドルフ皇太子が唱えるような急進的な攻策が、この帝国の臣民に受け入れられるとも考えていなかった。 オーストリアは、急進的な変革と決断を嫌う国なのだ。 皇太子の急進性と過激を皇帝は憂えていた。 だが、皇帝は、そんな自らの考えを周囲の誰にも洩らすことはしなかった。 いつかは、この国が変わらざるを得ないだろうという考えは、側近たちにも、帝国の変化を求めている皇太子にすらも言うことのできない事実だったのである。 彼が本音を言えるのは、弱音を吐けるのは、最も皇帝の側近くに控えながら、オーストリア帝国の外にいる瞬にだけだったのかもしれない。 15歳になったばかりの子供にだけ──皇帝は、ふっと弱音を洩らす。 以前、瞬は、そんな皇帝に提言したことがあった。 「陛下のお身を気遣う者は、私以外にもたくさんおりましょう。お悩みを、皇后陛下や皇太子殿下に打ち明けてみてはいかがですか。お考えを大臣たちに伝えてみてはいかがでしょう。僕では何のお力にもなれません……」 ──と。 皇帝の答えは苦いものだった。 「若い頃……あのオペラ座を建造した時に、私は、その設計士に非難の言葉を浴びせたことがある。彼等はすぐに、自ら命を絶った。私はその時、皇帝が真実を口にすることは愚かしいことだと悟ったんだ。すべてを見、すべてを知りながら、自分を殺し続け、『万事それでよい』と言い続けることが、皇帝の役目だと、な。非難、批判、提案、意見、悩みも要望も──皇帝は口にすべきではない」 「愛している方々に、愛していると伝えることすら許されないのですか」 「そんなことを言ったら、妻や息子を苦しませ、悩ませるだけだろう。彼等は、私の代わりに“自由”を生きてくれている大切な家族だ」 「そんな……」 そんな愛情があっていいものだろうか。 家族の溝を深めるだけの、皇帝が苦しむだけの、決して喜びを得ることのない愛情。 力無く微笑む皇帝の前で、瞬は涙ぐんでいた。 「瞬は優しいな」 背の高い皇帝が、自分の胸にも届かないところにある瞬の肩に手を置く。 「そして、辛抱強い。日本人は皆こうなのか。瞬は恨むことはないのか? 自分を捨てた父や捨てさせた国を」 エリザベート皇后が明治天皇から贈られたという漆塗りの読書台を、瞬がしげしげと眺めている場面に、以前、皇帝は出合ったことがあった。 「どんな事情があったのか、知りたくはないのか。あの使節団の一員だったというのなら、瞬の父は、日本では相当の家格の家の者だったのだろう。今頃は国務大臣くらいにはなっているかもしれないぞ」 皇帝の言葉に、瞬は左右に首を振った。 瞬が父の国に対して抱いているのは憧憬ばかりで、父や今の自分の境遇を恨んだことは、瞬は一度もなかったのである。 それは、亡くなった母親の口から、父への恨みがましい言葉を聞いたことがなかったせいだったかもしれない。 「僕は、こうして生きていられますし、陛下に親しくお声を掛けていただく光栄にも浴しています。僕は幸せです」 無欲な瞬の言葉を、皇帝は切なげに受けとめ、それから呻くように呟いた。 「では、私も幸せなのだろう。愛する女性を妻にでき、子まで為した。幸せなのだろう、おそらく」 「陛下……」 帝国に君臨する帝王の寂しげな笑みに、瞬はまた泣きたい気分になった。 |