長い沈黙の後、皇帝の執務室に氷河の声が響く。
「俺には──恋人がいる。王族どころか、貴族ですらない。ただ、優しくて、強くて、素直で可愛い、それだけの──。だが、俺には、帝国よりも価値があるものだ」

それが、皇帝にではなく、自分に向けられた言葉だと気付いて、瞬は顔をあげた。

「陛下とルドルフ皇太子殿下に教えられました」
その時には、氷河の横顔は、再び帝国の皇帝に向けられていたが。


「そうか……。皇太子になどなってはいられないか」
皇帝が、呟くように言って、彼の甥の青い瞳を見詰める。

「俺は──私は、陛下ほど強くありません。私のことは捨て置いてください」
氷河の声は、今はむしろ、穏やかでさえあった。

「そうか……そうだな……」
皇帝は、決して戯れにそんなことを言い出したわけではなかったようだった。
彼は、半ば以上落胆して、氷河の答えを受け止めているように、瞬には見えた。

しかし、皇帝は、落胆する心とは別の次元で、氷河の決断を喜んでもいたらしい。
「この不幸なハプスブルクの中にも一人くらいは、愛に満ちた幸福な一生を送る者がいてもよかろう……。私やルドルフの分も──」

「はい」

氷河が、皇帝に頷く。
瞬は、信じられない思いで――半ば呆然として――ハプスブルク家の伯父と甥の言葉のやりとりを聞いていた。

衰えたとは言え、世界に冠たるハプスブルク、その領地はロシアに次いで広大である。
その皇帝の座を、氷河は恋のために棒に振るというのである。

瞬の視線に気付くと、氷河は、あの閲兵式の時と同じように、戯れめいたウインクを投げてきた。
「所詮、自分だけの幸福を求める男だ、俺は。恋の方が大事だ」

「それで、愛する者を幸福にできるのなら、それがいちばんいい」
氷河の悪ふざけにも、そして、瞬の瞳に溢れる涙の意味にも気付いていない皇帝が、氷河に頷き、そして言葉を継ぐ。

「我が母ゾフィーの遺言だった。フェルトキルヒにあるシャッテン城をマックスの子であるそなたに与えるようにと」

突然皇帝が言い出したその言葉が、たった今皇帝が作った嘘だということは、氷河にも瞬にもすぐにわかっていた。
氷河の祖母であるゾフィー大公妃の死から、既に17年が経っている。今更遺言も何もない。

そして、シャッテン城は、先のウィーン会議で永世中立国として認められたスイスとの国境にある城である。
皇帝が何を危惧して、その城を氷河に与えようとしているのかは、考えるまでもないことだった。

「ありがとうございます。ですが、陛下を守るのが私の勤めですので」
「この国はいずれ、滅びる」

「その時には、瞬を連れて、新大陸か日本にでも渡ります。上手く立ち回ってみせます。生き延びるために」
氷河が、きっぱりと皇帝に告げる。

「…………」
その言葉通り、氷河は上手くやるのだろう。ハプスブルクの名になど縛られずに──。
皇帝はそう考え、自分の行き過ぎた老婆心を滑稽に思ったようだった。

疲れ果てた伯父がいらぬ心配などしなくても、縛られるもののない若く自由な甥は、彼の幸福を守るために、持てる力の全てを駆使するに違いないのだ。

「瞬を連れて……ああ、その時にはそうしてくれるか。この子は他に身寄りもないかわいそうな子で、だが、だからこそハプスブルクの崩壊になど巻き込みたくはない」
「はい」
氷河が、皇帝に頷く。

それを確認してから、皇帝はふと小さな笑みを洩らした。
「しかし、瞬はこの通り、可愛らしいから──こんな道連れがいたら、そなたの恋人が妬くかもしれないな」

皇帝は冗談のつもりで、そう言ったらしかった。
いたってノーマルかつオーソドックスな倫理感をしか持たない皇帝は、氷河の恋の相手が誰なのかを察することもできなかったらしい。

「妬いてくれたら嬉しいのですが」

氷河は、帝国の偉大な父にして、愛情深く実直な伯父に、真顔でそう答えてみせた。






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