「ここ、あの時の陣幕の中の庭に似てるね。ヒョウガ、今は軍装してなくて身軽だけど、僕を捕まえられる?」

己れの失言を後悔しているヒョウガの苦渋に気付いているのかいないのか、シュンが突然──存外に明るい声で──ヒョウガに“鬼ごっこ”を持ちかけてくる。
まるで恋人同士の戯れを求めるかのように軽いシュンの声音に、ヒョウガはほっと安堵した。

「おまえを捕まえることなど簡単だ」
その心を捕まえることに比べれば──。

言葉にしてしまえない言葉を喉の奥に押しやって、ヒョウガは、掛けていたベンチから立ち上がったシュンの腕を捕らえようとした。
その手が、宙を掴む。
自分の掴んだはずのものが手の内にないことに驚いたヒョウガが瞳を見開いた時、シュンの身体はヒョウガの腕を伸ばしきったところよりもずっと先にいた。

──ヒョウガは最初、あまり本気ではなかったのである。
ただの遊びだと思っていたし、自分よりずっと小柄で華奢なシュンを相手に本気になること自体が、不名誉なことに思われたから。

それを見透かしたように、シュンがヒョウガを挑発する。
「本気にならないと、僕、このまま、ヒョウガの家から逃げちゃうよ」
「……!」

その言葉に、戯れではない響きを感じ取って、ヒョウガはやっと本気になった。
だが、シュンは、岩場を駆け下りる小鹿より敏捷で、ヒョウガは本気になっても、その身体を捕まえることができなかったのである。

障害のないスタジアムでなら、シュンはもっと速く走るに違いない。
オリンピアでの競技会に出ても、余裕で優勝できそうな素早さだった。

幾度もヒョウガの手を逃れてみせた後で、シュンは気が済んだのか、やっと足を止めた。
ヒョウガから少し離れた場所に立ち、ヒョウガをからかうように、拗ねるように、そして、どこか悲しそうに、シュンは言った。
「ヒョウガは、何のためにオリンピア祭に参加するの。僕を何ヶ月も放っておいて」

アテネからオリンピアまでは遠い。
競技会の開催期間は10日足らずとはいえ、その前後に催される儀式や演説会、往復にかかる日時を考えれば、ヒョウガは二ヶ月間はアテネを離れていることになるだろう。
そして、ヒョウガがオリンピア祭に参加し勝利することで得られるものは、既に彼の手の中にあるものだけなのだ。

何のために参加するのかと問われても、ヒョウガにはその答えを見い出すことはできなかった。
自身の名誉のためというより、他人の期待、アテネ市民としての義務、体面という側面の方が強くなってきているのも事実だった。






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