感覚がほとんど失われてしまった身体を無理に起こして、シュンは、その顔を覆っているヒョウガの手を脇にどけた。
苦渋の色をたたえているヒョウガの瞳を覗き込んだシュンが、そして、困ったように小さく微笑する。
「ばか。あの時、どうしてヒョウガが僕に追いつけたのかもわかってないの」

「シュン……?」
『あの時』──というのは、マケドニア遠征の軍幕の中で、自分がシュンに乱暴を働いた時──のことだろうか。
あの時・・・、捕まえることができないはずのシュンを、自分が捕まえることができたのは、では、それがシュンの望みだったからなのだろうか──?
これまで考えたことのなかったその可能性に、ヒョウガは初めて思い及んだ。

シュンが、幼い子供の髪を梳くように、ヒョウガの髪に指を絡ませながら、小さな声で囁く。
「だって、僕の方からヒョウガのところに駆け込んでいったら、僕の父の立場はどうなるの。僕の父は、マケドニアの主席大臣で、王の腹心なんだよ? 僕の名誉だけのことなら、そうすることもできたけど、マケドニアに残る一族のことを考えたら、僕はああするしかなかった。アテネの将軍に無理矢理奪われたんでなければ、僕は故国を出られなかったんだよ」

「シュン……」
「わかってくれているんだとばかり思ってたのに……。ヒョウガが僕に負い目を感じる必要なんて、全然なかったのに……」
ヒョウガを見詰めるシュンの瞳が、悲しげに潤んでいる。
シュンにそんな眼差しを作らせてしまった自分自身を、ヒョウガは一刹那、強く憎んだ。

「言ってくれなければ、俺には……いや、そうだな。おまえは俺を責めたことは一度もなかった──」
シュンは、自分の名誉を『捨てた』と言った。
『奪われ、踏みにじられた』と言ったことは、一度もなかったのだ。

ヒョウガは、3年間にも及ぶ己れの不明に恥じ入り、自嘲した。
望めばシュンはいつもすぐに、その身を自分の胸に投げかけてくれていたのに、なぜそこに心がないなどと、自分は一人で勝手に決めつけていられたのか──と。
「すまない。俺が愚かだった」

ヒョウガの謝罪を微笑で受けとめたシュンが、ふと気付いたように、ヒョウガに尋ねてくる。
「もしかして、ニキアスのこと、変に勘繰ってた?」
「…………」
答えないことが──否、答えられないことが、ヒョウガの答えだった。

シュンが呆れた顔になって、ぼやく。
「ヒョウガって、自信過剰気味なくらいに自信家だと思っていたのに」
「惚れた相手の前で、そうそう自信家でいられるものか」

意外に素直に自分の非を認めたヒョウガに免じて、シュンは、それこそ不名誉な疑いを抱かれていた事実を、許してやることにした。
許さざるを得なかった。

恋という名の競技の場では、シュンもまた決して勝利者ではいられなかったから。
恋というものは、おそらく、負けた方が真に幸せでいられる競技なのに違いなかった。






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