「ニキアスはね、戦争が嫌いなの。お祖父さんをぺルシャとの戦で亡くしてるし、今度の戦ではお兄さんがあんなことになったし……。最初はね、ギリシャの全ポリスから人が集まってくるオリンピア祭の場で、ヒョウガに、戦争をやめるための演説をしてもらえないかって、僕に言ってきたんだ。でも──」
「俺に……?」

どうして、彼がそんなことを──そんな実現不可能なことを──考えついたのか、ヒョウガはすぐには合点がいかなかった。
戦にみ、日々の生活に疲れ果てた彼は、もしかしたら、藁にもすがる気持ちになっていたのかもしれない。

似たような逆境を自力で乗り越えたことで傲慢になり、弱者だった頃の自分を忘れ、弱者の立場と心を思い遣ることを忘れてしまっていた自分に、ヒョウガは遅ればせながらに気付いた。
そして、ヒョウガは、シュンの我儘の意味を理解したのである。

戦の中止を訴えることは、戦で富を得たヒョウガには決してできないことだった。
そして、それは、戦場で恋人に出会い、幸福を手にいれたシュンにも、胸を張ってできる主張ではない。
だとしたら、その訴えを訴えたい本人がオリンピアに出向き、人々に訴えるのが最も適切かつ効果的なことだと、シュンは考えたに違いないのだ。

「……何のために参加するのかもわかっていない俺が行くよりも、奴がオリンピア祭に行く方が、確かに有意義かもしれないな」
「ヒョウガ……」
「4大祭典を完全制覇しても、おまえが喜んでくれないのでは、勝利の意味がない」
「喜ばないわけじゃ……ないんだけど……」

シュンは口ごもり、僅かに瞼を伏せた。
“奴隷”の身分にある者がそんなことを言うのは僭越なことなのかもしれないとでも思っているのか、一瞬躊躇してから、シュンが言葉を続ける。

「今のまま、終わらない戦を続けていたら、ギリシャは──今は繁栄を誇っている このアテネだって、やがては疲弊して、遠からず滅びる日がくるよ。僕はそんなことになってほしくないんだ。ここはヒョウガのいる国だから。僕がヒョウガと一緒に生きていく国だから……」
「…………」

シュンの訴えを聞いて、ヒョウガはしばし言葉を失ったのである。
ヒョウガが勝手にシュンに負い目を感じ、下種の勘繰りをしていた間にも、シュンは自分から名誉を奪った男の身を案じてくれていたのだ。
そして、シュンは、自分を奴隷としてしか受け入れてくれない国で生きていく決意をしてくれていたのである。

ヒョウガは、シュンに言うべき言葉を見つけられなかった。
今こそシュンを強く抱きしめてやりたいと思ったのだが、先ほどまで無理を強いていた身体にこれ以上の負担をかけることもできない。
仕方なく、ヒョウガは、自身の胸中の喜びと感動を、笑いに紛らすことにした。

「俺がオリンピアに行っている間に、おまえに浮気されても困るし、俺のいないところで、他の男たちに目をつけられても困るし、少しは──寂しい思いをさせてしまうかもしれないし、な」
「去年、ヒョウガが僕をここに残してネメア祭に行っていた間、僕が、寂しくて寂しくて、ヒョウガのいないベッドで毎日泣いてたことなんて、ヒョウガは知らないんでしょう」

「──知らなかった」
正直な答えを返したヒョウガに、シュンが泣き笑いを投げてくる。

ヒョウガは、本当に、何も知らなかったのである。
自分の望むものが、とうの昔に完全に、自分のものになっていたということを。






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