瞬が あれほど懸命に声を洩らさぬよう努力したにも関わらず、翌朝、瞬の部屋の御簾の陰には、すべてを承知したような様子の乳母の姿があった。

「瞬を抱いた。世話を頼む」
「はい」
彼女がそこに控えていることに最初から気付いていたのか、氷河は慌てた様子を見せなかった。
瞬の部屋を出る氷河に命じられた乳母は、いつもの通りに手際よく、瞬の前に着替えを差し出した。

「あ……あの……あのね……」
彼女の様子が平生と変わらぬことにむしろ困惑して、瞬は必死に乳母への弁解を考えようとしたのだが、彼女は笑って――まるで、今朝を、大切に育ててきた彼女の姫が ごく普通に幸福な婚姻を為した翌朝と思っているかのように笑って――瞬に告げた。

「そんなに恥ずかしがられなくても――もう、家中の者は皆 存じております。氷河様のお父様もお母様もそれはお喜びで……。もっとも、お二人は、氷河様に後朝きぬぎぬのお歌が作れるのかと、それだけはご心配されておいででしたが」
「…………」

乳母は、あの秘密を守り通すつもりらしい。
それでいいのだろうかと、瞬は戸惑った。
瞬は、自分と氷河がこんなことになるとは、つい昨日までは考えてもいなかった。
氷河が通っている姫君たちの中から やがて氷河の正妻が決まり、その姫がこの家にやってきて、自分はいつかはこの家を出ていくしかないのだと、瞬は思っていたのだ。
しかし氷河は――氷河とこの乳母は、死ぬまであの嘘を貫き通す気でいるようだった。

瞬の不安を汲んだらしい乳母が、心持ち 声を潜める。
「あの汚らわしい悪左府のところへは、昨夕の牛車に瞬様の代わりに私が乗り込んで参上いたしまして、丁重にお断りしてまいりました。瞬様が氷河様のためにそんなことを考えてらしたなんて、気付かずにいた乳母をどうぞお許しください」

「あれは……あれは僕が浅はかだったの。でも、あれは……あんなことじゃなく……」
そんな重要なことをすっかり忘れ果てていた自分に、瞬は当惑せずにはいられなかった。
だが、今の瞬が懸念しているのは、そんなことではなかったのだ。

しかし、瞬の乳母はそれにもすぐに首を振った。
「乳母にとって、氷河様と瞬様は大切で特別なお二人だと申し上げましたでしょう。お二人の幸せが私の望みだと。卑屈なことはお考えにならず、気を強くお持ちください。氷河様が、すべて良いようにしてくださいます。瞬様は氷河様を信じていらっしゃればよろしいんです」

乳母にきっぱりと断言されて、瞬は一抹の不安を覚えつつも、彼女に頷き返すしかなかったのである。






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