「そーか、瞬に部屋に入れてもらえなかったのか!」
氷河を『同志』と呼ぶ男は、為す術もなくラウンジに戻ってきた氷河の姿を認めると、ひどく嬉しそうにそう言った。
氷河の恨みがましい視線に気付き、すぐに一つ わざとらしい咳払いをする。

「あ、いや。我が弟ながらけしからん。何という我儘だ!」
言葉でどう言おうとも、一輝がこの事態を喜んでいるのは明白だった。
氷河は、不愉快極まりない瞬の兄に、目一杯ムカっ腹を立てることになったのである。
こんなことで瞬との仲を破綻に至らせるわけにはいかなかった。

××が駄目ならケーキがある。
瞬の機嫌を取り結ぶ手段を、氷河はいくらでも心得ていた。
鳥類の多くが採用している、メスにエサを運んで交尾を求める求愛給餌行動、あるいは求愛巣作り、外見を飾るディスプレイに、今更言わずもがなの求愛ダンス。
大自然の中で 動物たちが愛する者を我が物にするために行なう努力と同じ努力を積み重ねて――いわば自然の法則にのっとって――氷河は瞬を手に入れた。
それらの努力をもう一度繰り返せば2人の仲は復旧するのだと、氷河は自分自身に言いきかせ、かつ、己れに言いきかせたことを速やかに実践しようとした。
のだが。

翌日 氷河は、瞬の不機嫌を一発で氷解させた実績を持つ某ケーキ店のケーキを10種類ほど買ってきて、それを瞬の前に差し出そうとした。
そこに一輝が、割り込むようにして 余計な口を挟んでくる。

「そもそも醤油はソースなんかとは違って、歴史ある調味料なんだ。醤油が初めて作られたのは鎌倉時代中期、13世紀中頃、味噌の製造過程で、塩の浸透圧によって野菜から出た液汁を料理に使ったのが最初と言われている。ウスターソースなんぞ、それから600年もあとの19世紀に入ってから生まれた、ぽっと出の調味料に過ぎん。中濃・とんかつソースに至っては、第二次大戦後の日本で作られた、ますますぽっと出の 歴史も伝統もない調味料なんだぞ」

瞬とその恋人を反目させ合うためになら、自身が最愛の弟と対立することになっても構わないと 一輝は考えているのではないか――?
いかにも付け焼刃の薀蓄を披露する一輝の姿を見て、氷河はそんな疑いの心を抱いたのである。

「歴史と伝統? 卵は新鮮な方がおいしいよ。調味料もおんなじでしょ」
兄の言葉に、瞬が――今日も瞬らしくなく――反駁する。
「だいたい、お醤油なんて、ソースの一種にすぎないんだから。ああ、もう、兄さんがこんなわからず屋だったなんて……!」
「俺がわからず屋なら、氷河も紫龍もそうだということになるな。おまえの味方は、蜂蜜とメープルシロップの区別もつかないような星矢だけだ」
「兄さんたち・・は、これまで命懸けの闘いを一緒に闘ってきた仲間を侮辱するの!」

天地神明に誓って、氷河は一輝の主張に賛同した覚えは 一瞬たりともなかった。
ゆえに氷河は、自分が、よりにもよって一輝と一くくりにされたことに大いに憤り、かつ焦ったのである。
しかし、瞬の中では、“氷河”は既に一輝と同類項に分類されてしまっているらしい。
その証拠に瞬は、手渡し損ねたケーキの箱を手にしている氷河に一瞥をくれると、
「氷河なんか大っ嫌い!」
という捨てゼリフを残して、すたすたとラウンジを出ていってしまったのである。

どうしてそういうことになるのか、氷河には全く訳がわからなかった。
わからないながらも、氷河はすぐに瞬のあとを追おうとした。
そこを、瞬の兄に引き止められる。

「氷河、裏切るなよ」
「裏切るも何も、俺は貴様の味方になったことなど一度もない!」
「今、瞬にすり寄っていったら、貴様は惰弱で軟弱な卑怯者だ。たかが目玉焼きにかける調味料のことくらいで、己れの主義主張を曲げるような根性なしの男など、瞬にふさわしくない。瞬も軽蔑するだけだろう」
「…………」

一輝の言い回しは、それなりに巧妙だった。
だが、矛盾してもいた。
それがわかっていながら氷河は その時、妙な意地とプライドのために、
「俺は瞬の機嫌を損ねないためになら、惰弱な卑怯者で構わない」
と言い返すことができなかったのである。






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