日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦、そして第二次世界大戦等の戦時下、大日本帝国の全国各地で徴兵忌避の手段として醤油の一升飲みが実行されたことは、作り話でもなければ冗談でもない。 醤油は、一時に大量摂取すると消化管の刺激、神経系障害、循環系障害、ショック、溶血、肝・腎障害等の障害を起こす、極めて刺激的な飲料。 それで徴兵検査をすり抜けることができた成人男子は、決して多くはなかったが、さりとて皆無でもなかったのである。 醤油は18〜20パーセントの食塩を含有している。 塩化ナトリウムの致死量は0.5〜5g/kg。 飲用する人間の体格・体調によって相当の幅はあるが、瞬程度の体重であれば25g〜250g。醤油なら140〜1250cc。 人は、コップ一杯の醤油で死ぬこともあるのである。 その場に崩れ落ちた瞬の側に真っ先に駆け寄り、その身体を抱き起こしたのは、氷河でも一輝でもなく、星矢だった。 「氷河っ! おまえのせいだぞ!」 相変わらず何が起こったのかを理解しかね、それゆえ その場に立ち尽くしているだけの氷河を、星矢が怒鳴りつける。 「俺が何をしたと……」 「許してほしかったらコップ一杯分の醤油を一気飲みしろなんて、あんまりじゃないか! 瞬はおまえにそんなこと言われてショック受けて、それでもおまえに許してもらいたかったから、こんな――」 星矢は半分泣き声である。 が、星矢にそんなふうに責められても、やはり氷河には事の次第が理解できなかった。 そんな馬鹿げたことを口にした覚えが、彼には全くなかったのである。 「星矢、それを言ったのは氷河じゃない。この俺だ」 「一輝……?」 「氷河がそんな条件を突きつけてきたと言われれば、瞬もこの毛唐に愛想を尽かすだろうと思って、それが氷河の考えた条件だと、おまえに嘘を言ったんだ。まさか、本当に飲むとは思わなかった」 一輝でなくても、まさか本当にそんな条件を、瞬が、文字通り“飲む”とは、誰も思わなかったろう。 現に氷河は、夢の中ででさえ、そして醤油の半分も塩分を含まないソースをさえ、飲むことができなかったのだ。 「瞬っ、俺が悪かった、死なないでくれっ!」 「瞬、俺のためにこんな……」 瞬の兄と事情を知った氷河とが、星矢を突き飛ばして、気を失っている瞬の身に取りすがり、あまり華麗ではない がなり声をダイニングルームに響かせ始める。 瞬の2人の身内に突き飛ばされて尻餅をついた星矢は、差し延べられた紫龍の手を借りて、その場に立ちあがった。 「瞬が死ぬなんてことあるのか?」 「死にはしないだろう。飲んだと言っても ほんのひと口ふた口だけだし、致死量には足りなさすぎるくらいだ。瞬はただ気持ち悪くなって倒れただけだろう。いくら有名老舗店が豆と塩と水とを厳選して 上等の杉樽で天然醸造した超高級醤油といっても、それだけ飲んだら死ぬほど不味いだろうからな」 「何を言う! 瞬はデリケートなんだ、無責任な安請け合いをするなっ!」×2 紫龍は呆れ かつ感心しながら、極めて冷静に、瞬をベッドに運ぶことを、錯乱気味の2人に提案した。 |