長い静寂のあとで、神殿内は蜂の巣をつついたような大騒ぎになった。
アテナが神への畏敬の念以外の何かを求めることなどありえず、これは何らかの試みなのではないかと疑う者。
実際に神の言葉があったのだから、その命に従うべきだと主張する者。
民の反応は様々だったが、その中の誰一人として、無力な神官見習いの命を惜しんでいる者はいなかった。
彼等にとって重要なのは、神の言葉と国の行く末であって――つまりは彼等自身の命と生活であって――シュンではないのだ。
その場にいる者の中で、ヒョウガとこの神殿の長だけが、国のために払われる犠牲の大きさに衝撃を受けていた。

ともあれ、時ならぬこの騒ぎを鎮めるために、そして、シュンの身を案じて、ヒョウガと神官長はシュンを王宮に避難させることにした。
二人に庇われるようにして、シュンは王宮内のヒョウガの私室に連れていかれたのである。


「戦いの女神が、平和の代償にシュンの血を求めるというのか!」
神殿の作業部屋の質素なそれとは違う布張りの豪奢な長椅子に座らされたシュンは、半ば呆然として、ヒョウガが激昂する様を視界に映していた。
そもそも 地位も力も優れた血統も才能もない無力な存在である自分が神に望まれたことの理由が、シュンには理解できていなかった――それは、ありえないことだった。

だがヒョウガは、なまじシュンの価値を知っているだけに、これは何かの間違いだと一笑に付すことができなかったのである。
「あれは本当にアテナの声だったのか!」
アテナイを守り、その民を愛する英邁な神と信じていたから、神の意に沿うよう、これまで様々なことを我慢してきたというのに、王のその努力を嘲笑うかのように、アテナは王の手から彼の大切なものを奪い取ろうとしている。
アテナがそのように無慈悲で愚かな神であるのなら、ヒョウガは彼女に敬意を払うことも礼節を守ることも金輪際やめてやると思った。

白い髭を蓄えた神官長が、怒髪天を突いている王に頷き、抑揚のない声で告げる。
「人でないことは確かです」
「なぜそう言い切れる」
「神殿内で、あの声は木霊しておりませんでした。人間の声なら――地上の音ならありえないことです」
「性悪な神のいたずらということも考えられるだろう」
「栄光あるアテナの神殿で、そのような真似のできる者が――たとえ神といえど、存在しましょうや」
「おまえはシュンの命がどうなってもいいというのか!」

人の手で人の国を治めたいという野心を抱く国王にとって、神の権威を盾にし王権に逆らう神殿という機構は邪魔な障害物でしかなかった。
その長が、だが、シュンを慈しみ育てた男だと思うからこそ、ヒョウガは表立って神殿と対立することを避けてきたのである。
彼がシュンを見捨てるというのなら、神官長はヒョウガにとって敵でしかなかった。

血が繋がらないとはいえ十数年間息子として慈しんできたシュンに、神官長が苦渋の視線を向ける。
しかし彼は、シュンの養父である前にアテナイの国に対して重責を負うアテナ神殿の長だった。
「神がそれをお望みなら、人に逆らうことなど」
「おまえは仮にもシュンの父親だろう。俺は絶対に――」
「陛下のシュンへのお気遣いには感謝しております。が」
シュンに許しを求めるように、彼は苦しげに顔を歪めた。
「私はアテナの神殿を任された者。国民を信仰で支える義務があり、国王であるあなたは現実面で民を守る義務を負っています」

「俺はお飾りの国王だ。たまたま、このアテナイを作ったテセウスの血を引いて生まれてきただけの凡庸で臆病な一人の男にすぎない。いいか、俺は愚かな男だから、自分の非力を顧みず、理不尽なことをする神には徹頭徹尾逆らうぞ。この国は、もともと俺の治める国じゃない。どうなろうと知ったことか!」
ヒョウガはきっぱりと、シュンとシュンの養父の前で断言した。
それまで無言で顔を伏せていたシュンが、ヒョウガの言葉に弾かれたように顔をあげ、アテナイの王を切なげな目で見詰める。
「ヒョウガ。僕はヒョウガの役に立てるのなら……ヒョウガの国の民を守るために命を差し出すことくらい――」
「おまえは黙っていろ!」

ヒョウガは大声でシュンを一喝した。
ヒョウガが恐れていたのは――何よりも恐れていたのは――シュンがそう言い出すことだった。
国のため、民のため、そしてアテナイの王のために、運命に逆らうことを考えもしないシュンは、自ら進んでその身を犠牲にしようとするかもしれない。
だが、ヒョウガにはそれは絶対に許せないことだったのだ。
そして、口ではどれほど無謀無責任なことを言うことができても、一国の王として、ヒョウガは、シュンひとりの命と数十万のアテナイの民の命を秤にかけないわけにはいかなかった。






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