「星矢……」
氷河の部屋に逃げ込んだ星矢を出迎えたものは、瞬の涙だった。
「ど……どーしたんだ? 氷河のアタマが本格的におかしくなったのかっ !? 」
瞬の涙に慌てて、星矢はベッドの上に横たわっている氷河の上に視線を投げたのである。
だが、氷河は未だ悪夢の中にいるのか、少なくとも目覚めた気配はない。
ではいったい瞬は何を泣いているのかと訝った星矢に、瞬の口から思いがけない事実が知らされる。
瞬は、その瞳に涙をいっぱいにためて、
「氷河が死んじゃった……」
と、衝撃の事実を星矢に告げてきたのだ。

「へ?」
「氷河が、兄さんの幻魔拳のせいで死んじゃった……」
衝撃の事実――それが“事実”なのであれば、確かにそれは、あってはないない震天動地の大事実である。
アテナの聖闘士が、地上の平和ならぬ痴情絡みの内輪揉めで命を落とすなど、神話の時代から考えても、まさに空前絶後の出来事であるに違いない。
星矢は、瞬の言葉を、にわかには信じることができなかった。
しかし、瞬がそんな悪質な嘘をつくはずはないし、瞬の態度は冗談を言っているようにも見えない。

「なっ泣くなよ、瞬! てか、そんなことあるはずないだろ!」
ぽろぽろと涙をこぼし、仲間にすがりついてきた瞬の肩を抱きとめながら、星矢は混乱を極めていた。
瞬が泣いているというのに、寝台に仰臥している氷河はぴくりとも動かない。
たとえ本当に死んでいたとしても、瞬が泣いていたら氷河は地獄の底からでも蘇ってくるに違いないと思っていただけに、星矢は氷河の沈黙が信じられなかった。
「いくら氷河の傍若無人が腹に据えかねたからって、一輝が本気で氷河を殺したりするはずねーだろ! おまえが泣くのがわかってるのに!」

瞬だけではなく自分自身をも落ち着かせるために そう言いながら――だが、星矢はふと思ってしまったのである。
(氷河が死んだ……って、それって、つまり、瞬はもう氷河のものじゃないってことか……?)
そう思った瞬間に、星矢の心臓は、氷河の死を知らされた時よりも大きく早く波打ち始めた。
(何だ? 俺は、こんな時にいったい何を考えてるんだ……?)
「で……でも、ほんとに氷河の心臓が動いてないんだよ……っ!」
星矢の戸惑いに気付いたふうもなく、瞬はいよいよ強く星矢にしがみついてくる。
星矢の心臓の高鳴りは、ますます早く大きなものになった。

あの棺桶のような箱の中に瞬と二人で潜んでいた時、二人の周囲に敷き詰められていた花の匂いは、嗅覚への刺激が強くて不快なばかりだったが、その邪魔物がない今、瞬のそれはひどく優しくて甘い――ような気がした。
花より甘い瞬の香りに鼻腔をくすぐられ、星矢の心臓はどきどきと高鳴るばかりである。
そして、自分はなぜ今まで この自明の理に気付かずにいたのか――と、星矢は思った。

氷河が言っていた通り、瞬はそんじょそこらの女など比べ物にならないほど可愛い。
気心も知れてるし、根本的に優しいことも、星矢は知っていた。
仲間の無鉄砲や傍若無人をいつも笑って受け止められるだけの包容力と強さも、瞬は持っている。
瞬を嫌う理由はない。
好きになる理由しかない。
確かに瞬は男なのだが、人並み・一般的と言われる幸福に執着を抱いてさえいなければ、アテナの聖闘士の恋人として、瞬ほど好ましい存在があるだろうか。
共に闘うことができ、どんな悩みも心配事も――ありとあらゆる苦楽を自然に共にでき、その上、誰よりも優しい心地良さで仲間を包んでくれる人間。
星矢は、冥界では瞬に庇われっぱなしだった。
考えれば考えるほど、これまで瞬に対して恋という感情を抱かずにいられた自分自身が、星矢には不思議に思えてならなかったのである。

なぜ今まで瞬をそういうものとして見ずにいられたのかと今更ながらに一考すると、それはやはり、『瞬は氷河のもの』という先入観が、瞬をそういう目で見ることを自分に禁じていたのだとしか思えなかった。
だが、その先入観を作っていたものは、もはやこの世には存在しない――のだ。
氷河がいなくなれば、瞬はもう誰のものでもない。
誰のものでもない瞬を手に入れることは、誰にでも――自分にも――できるのだ。

星矢の心臓の高鳴りは既に、仲間の突然の死を驚き嘆くためのものではなくなっていた。
星矢の心臓が勢いよく その体内に血液を送り出しているのは、瞬の匂いと髪の感触と瞬の肩の細さに触発されてのことだった。
そして、その心臓の活動は強く激しくなるばかりで、一向に落ち着く気配がない。

(ど……どうなってるんだ、俺は。俺、もしかしたらほんとは瞬が好きだったのか……?)
思考を言葉で形にした途端に、頭に血がのぼってくる。
そんな自分自身の身体と心に動揺し、星矢は、瞬の肩を掴んでいる手にぎゅっと力を込めた。






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