星矢が目覚めた時、彼は氷河の部屋ではなく彼自身の部屋のベッドに横になっていた。
枕元の椅子には心配そうな目をした瞬が腰掛けていて、その後ろには、一輝と紫龍と、そして死んだはずの男が立っていた。

「どうだ、地獄を見た感想は? フッ、聞いても無駄か」
一輝は、おそらく、そのセリフを言うためだけに、律儀に星矢の目覚めを待っていたに違いない。
このセリフを言わないことには技が終結しないとでも言うかのように、彼はお約束のセリフを口にした。
こんな時に仲間の身を案じる言葉ではなく、いつもの決めゼリフを口にする兄に、瞬が眉を吊り上げる。

「兄さん! こんな時にまで、なにカッコつけてるんですか! いくら幻魔拳を欠陥技って言われたからって、仲間に幻魔拳をかけることはないでしょう! 二度目の氷河はまだ回復も立ち直りも早かったけど、星矢はもう何時間も苦しんで――」
弟に責められた一輝が、少しは反省したのか、右の肩だけを僅かにすくめる。
「俺も、技の名を叫ばないだけで、幻魔拳がこんなに漸進的な技になるとは思わなかったんだ」
「僕はそんなことを怒ってるんじゃありません! そもそも仲間にそういう技をかけること自体、しちゃいけないことだって言ってるんです!」

一輝と瞬のやりとりで、星矢は、自分が幻魔拳をかけられていたことを理解した。
だが、城戸邸の庭で一輝と別れた時から これまでのことが幻魔拳の見せた悪夢だったのだとしたら、それはいったいどういう悪夢だったのだろう――?
瞬に感じた胸の高鳴り、異様なまでの独占欲、瞬以外のものはどうなってしまっても構わないとさえ思う極端な利己主義――。
星矢は、まだ少し思考に霞がかかっているような状態で、ベッドの脇に立つ仲間たちの顔を見回した。
そして、その中の一つに目をとめる。
兄を叱りつけている瞬を見詰めているその青い瞳は、ぞっとするほど冷たい色をたたえていた。
それで、星矢は、自分が見た悪夢がどういう悪夢だったのかに気付くことができたのである。

「で、おまえはどんな地獄を見てきたんだ?」
とにもかくにも仲間の精神が崩壊していない――ということを、紫龍は星矢の表情から察したらしい。
安堵したような声で、彼は星矢に尋ねてきた。
「――氷河になった夢を見てた」
あの悪夢の中の“星矢”の、どこまでが氷河で、どこまでが星矢自身だったのかは、星矢本人にもわからなかったが、つまり、あれは、そういう“地獄”だったのだ。

「俺になることが地獄だと? どういう意味だ」
氷河が不愉快そうに片眉をひそめ、一輝がそんな氷河を鼻で笑う。
「人様に後ろ指さされて、嘲笑されるだけの人生。これが地獄でなくて、何が地獄だ。貴様の人生は、貴様以外の常識のある人間には地獄の悪夢以外の何ものでもないんだ。自覚しろ」
「うん……悪夢だった……」
あまりにもしみじみした口調で言われ、さすがの氷河が複雑な顔になる。

星矢の見た地獄が正しく“地獄”だったことを知って機嫌を良くしたらしい一輝は、意気揚々と氷河の部屋を退散し、
「兄さん、少しは反省してっ」
瞬が、兄のあとを追いかけていく。
そんな二人の姿を、まるで憎むような目で見詰めた氷河の瞳に、星矢は苦笑しかけた。――が、苦笑になるはずだったものは、ごく自然に感嘆の息に変わってしまったのである。

「氷河……。俺、おまえを誤解してたぜ」
星矢は、枕許に立つ金髪の男に、低い声で告げた。
「なに?」
「おまえ、あんなに瞬のことしか頭にないのに、それでも一応、アテナの聖闘士として闘ってるんだよな。すげー精神力だぜ。俺だったら、闘いたくても闘えねー……」

もし自分が氷河であったなら、どんな時にも瞬の一挙手一投足が気になって、とても闘いどころではない。
本当は氷河もそうなのだろう――と思う。
だが氷河は、そんな自分を抑制し、闘い続け、まがりなりにも今日のこの日までアテナの聖闘士としての務めを全うしてきたのだ。
心底では、瞬以外の人間は、仲間ですら、どうなっても構わないと思っているというのに。

氷河の本音がもし真実そうなのだとしても――氷河にとって、仲間や地上の平和というものがどれほど軽い存在でしかないのだとしても――星矢の心中には、不思議に彼に対する怒りは湧いてこなかった。
むしろ、それでも、アテナの聖闘士として闘い続ける氷河を――彼は強靭な意思の力でアテナの聖闘士の役を演じてのけているのだ――星矢は尊敬した。
感情も思考も五感も――何もかもが瞬だけに向かう、嵐としか表現できないものを身の内に抱え、それでも氷河は自身に課せられた義務を果たしている。
多少の行き過ぎた振舞いや、見当違いの妬心など、星矢は笑って許せる気がした。

「俺になったと言っていたが……」
妙に理解のある星矢を訝りつつ――なにしろ氷河は、瞬以外の人間にそういう態度を示してもらったことがなかったので――、氷河が抑揚のない声で告げる。
「おまえが どういうふうに俺になったのかは知らないが、瞬が地上の平和と安寧を望んでいるんだ。俺が闘うのは当然のことだ」
「ん。おまえは偉い」
ベッドに横になったままの体勢で、星矢は氷河に頷いた。
星矢の口から出てきた信じ難い言葉の意味を理解しかねた紫龍が、二人の幻魔拳犠牲者の横で、目を白黒させていた。






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