このサバイバル実験を最初にリタイアしたのは、紫龍だった。
投与されていた薬の不首尾が発覚してのことではない。
美食に慣れていたのが、彼の不運(幸運とも言う)だったろう。
どうのこうの言っても、城戸邸の食事は、アテナの聖闘士たちがそれぞれの修行地に向かう以前も帰還後も申し分のないものだったし、紫龍の修行地は中華4千年の歴史を有する食の国。
咀嚼機能を使えない日々と、何より苛立つ仲間たちの間で気を遣い続ける日々に辟易し、彼は早々にギブアップを決め込んだのである。
余力はあったが、『これで義理は果たした』という“義の男”ならではの考えも、彼の内にはあったようだった。

「そうね、現代人は美食に慣れているもの……。つまり、この薬には、まずは味の変化が必要ということね。イチゴ味やバナナ味の錠剤の検討をしなくては」
紫龍の脱落を知って、ごく冷静にそう言ったのは沙織だった。
人工衛星の電波を利用したテレビ会議用モニターの向こうで、彼女は分別顔で紫龍のリタイアを分析してみせた。

『そうではなくて、噛めるものがほしいのだ』という本心を、紫龍は沙織に知らせることはしなかった。
6日振りに口にする歯応えのあるもの――消化機能の低下を考慮して、杏仁豆腐と水ギョーザだったが――を賞味するのに、彼はなにしろ忙しかったのである。

「最初の脱落者が氷河じゃないのが不思議だ……」
文字通り、噛みしめるように水ギョーザを味わっている紫龍を羨ましそうに見やりつつ、星矢がぼやく。
青銅聖闘士たちの中で誰が最強かという問題以前に、星矢には、瞬と紫龍が精神的に最も安定しているように見えていたのだ。
そして、その対極にいるのが氷河と一輝だと。
財団本部の総帥室にいる沙織が、星矢のそのぼやきを聞いて、縦にとも横にともなく首を振る。
星矢の発言への同意と疑念が、彼女の中には共存しているようだった。

「体質が違うのかしら。血液検査では、氷河だけが他の4人とは少し違う値を示し続けているのよね」
「俺を卑怯者呼ばわりしておきながら、その実、この馬鹿は、抜け駆けで海に潜ってサカナでもとって食ってるんじゃないのか?」
「俺はそんな卑怯なことはしないし、するならまず瞬に奉げてから食う」
一輝の邪推を、氷河が即座に否定する。

「む……」
氷河のオスとしての習性をよく知っている一輝は、不本意ながら氷河が真実を告げていることを認めないわけにはいかなかった。






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